三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2019関西地域民族教育関係者研修会

2020年11月07日 | 紀州鉱山
2019関西地域民族教育関係者研修会
                          金靜美 

 2019年11月30日-12月1日の日程で、大阪韓国教育院・在日本大韓民国民団大阪府地方本部主催、駐大阪大韓民国総領事館後援の「関西地域 民族教育関係者 研修会」が熊野地域でおこなわれました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会から、金靜美、宇恵悟、佐藤正人が同行しました。
 研修に参加した人たちは、日本の公立学校に設置された民族学級で教えている教師たち、日本での民族教育に携わる韓国から派遣されてきている教師たち、韓国教育院院長、駐大阪韓国総領事館領事、あわせて36人で、わたしたち3人をいれて39人でした。

■本龍寺で(11月30日)
 本龍寺がある和気の区長久保理也さんと地元で長く本龍寺を管理してきた西正道さんが待ってくれていました。おふたりの話を聞いたあと、本堂に入り、以前無縁仏が置かれていた場所などを見ました。その後、本堂から納骨堂にうつされた白い布でつつまれた無縁仏の箱を見せていただきました。

 西正道さんの話
   「小学3年か4年のころ、朝鮮のかたがたくさんいた。紀州鉱山でたくさん働いていた。
   5年と6年のときには、朝鮮の子が何人もいた。学校は上川国民学校。複式。(名前を憶えている子
  はいるか?)一級下の3年の子で、日本名を使っていた。安川君。絵がじょうず。その子はげんき
  にしとんのかな。どこへ行ったんかな。そのころは戦争に負けたあと。食料難の時代。女の人が子ども
  を連れて、食べ物をわけてほしいと、よく来ていた」。

 久保理也さんの話
   「本龍寺の住職は以前は、高橋和尚。楊枝川にあった円通院の住職で、本龍寺を兼務していた。 
   (本龍寺にある遺骨は?)紀州鉱山の遺骨は、円通院から運んできた。日本人の遺骨も、紀州鉱山で
  働いていた人。家族があとでとりに来るからといって、置いていった」。

 本龍寺の納骨堂に置かれていた朝鮮人の遺骨は、いまはありません。
 曹洞宗の人権擁護推進本部から工藤英勝氏が来て、持ち去ったそうです。
 本龍寺の納骨堂にはいまも、数十体の遺骨が白い布に包まれて置かれています。白い布には、日本人の名前が書かれたのもありますが、名前が記されていない遺骨箱もあります。

■浄泉寺で(11月30日)
 本龍寺から新宮の浄泉寺に行き、山口範之住職から、浄泉寺と「大逆事件」の関係、朝鮮人の遺骨のお話などを聞き、浄泉寺に残されている朝鮮人の遺骨を見せていただきました。
 浄泉寺の12代目住職の高木顕明(1864-1914年)は、「大逆事件」で1911年1月18日に死刑判決を受け、無期懲役に減刑された後、1914年に僧籍を剥奪されました。
 山口範之住職の話では、浄泉寺には、日本の敗戦後、新宮・熊野地域で死亡した朝鮮人の遺骨が複数、遺されていて、家族が引き取りに来た以外の4体の遺骨は、現在、南谷墓地に移管されたそうです。その後、本堂の奥に、ほかにも朝鮮人の遺骨があることがわかり、大切に保管されてきました。

 その後、新宮の速玉大社に行きました。
 速玉大社は、秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の乱)のさい、朝鮮に出兵した九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆の先祖が「別当」(大社を統括する)という役職にあったそうです。壬辰・丁酉の乱のさい、新宮では、熊野から切り出された木材で朝鮮に出兵した九鬼水軍の船が建造されたそうです。

 夜、宿舎で、学習会が開かれました。
 駐大阪大韓民国総領事館教育担当領事梁鎬錫氏が、「民族学級・民族学校の課題と展望」という題で話しました。 
 つづいて、佐藤正人が「ふたつの会の成立と日本の侵略責任」、金靜美が「追悼碑の歴史的意味」、宇恵悟が「紀州鉱山がある場所に生まれ育って」という主題で話しました。
 最後に韓国教育院の金次守院長が、かつて朝鮮人が住み働き亡くなった場所をいまの世代の韓国人が訪ね、民族教育に生かす意義を話しました。

■極楽寺で(12月1日)
 足立知典住職の話
   「自分の寺に、(李基允氏と裵相度氏の)お墓があることを知らなかった。
    建て替えのときの整理で、会の手紙などを見つけた。それで、「木本事件」でお二人が亡くなられ
   たということを知った。
    地元の年配の人を訪ねて、自分なりに調べたりもした。いまでも当時のことを話せないという雰囲気が
   ある。
    このことばが引っ掛かり、考えた。ふたりのことを考えると、もやもやした思いになり、このもやもや
   は何なのか、いのちとは何なのか、何をしたら正しいのか、どうしたらいいだろうか、いろいろ考えた。
    高齢の人に聞いたら、大昔のことだから、触らんほうがいいよ、終わったことやでそのままにしとけ、
   といわれた。納得がいかなかった。ほっとくわけにはいかない、と思った。
    次の代につないでいく、それが使命。
     (李基允氏と裵相度氏の墓をつくったことについて)ふたりのことを考えるとこうせざるを得なかった。
    次の代でしてくれるかどうかわからない。自分の代で、しておきたいと思った。日本式の戒名を付ける
   のもどうかと思い、本名を刻んだ」。

 その後、木本隧道を歩いて鬼が城に出て、紀和町に向かいました。

■慈雲寺で(12月1日) 
 慈雲寺では、本堂奥に置かれている、『紀州鉱業所物故者霊名』を見せていただきました。 
 ここには、紀州鉱山でなくなった423人(1978年6月16日まで)の名簿があり、そのなかに朝鮮人の名前もあります。「創氏改名」されている名前もあるので、わたしたちは、朝鮮人であることを確認するために、複数の他の資料と照合しました。この名簿のなかには、朝鮮人と断定できませんが、ほかにも「創氏改名」された朝鮮人がいるかもしれません。
 以前は、朝鮮人の遺骨もあったそうですが、1980年10月、在日本大韓民国民団三重県地方本部が慈雲寺の遺骨を「望郷の丘」に「移送奉還」したそうです。

■追悼碑の前で(12月1日)
 民族学級の教師のひとりが、生徒が折ったという鶴をもってきて、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の白木蓮にかけました。
雨にぬれても傷まないようにと、ビニールに入れてきていました。 
この折鶴は、2020年10月17日、ほとんど1年後、白木蓮の大きな葉の陰で幹にくっつくようにして元気でした。
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