三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

円通院から本龍寺へ  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の遺骨

2021年10月31日 | 紀州鉱山
■円通院から本龍寺へ  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の遺骨■
                                    金靜美

  本龍寺がある和気の区長、久保理也さんと、地元で長く本龍寺を管理してきている西正道さんに、2019年11月30日、お会いした。久保理也さんから、「本龍寺の住職は以前は、高橋和尚。楊枝川にあった円通院の住職で、本龍寺を兼務していた。(本龍寺にある遺骨は?)紀州鉱山の遺骨は、円通院から運んできた。日本人の遺骨も、紀州鉱山で働いていた人。家族があとでとりに来るからといって、置いていった」と聞いた。
 1990年代はじめ、紀州鉱山の調査をはじめてすぐのころ、本龍寺に置かれている朝鮮人の遺骨は、円通院からうつされてきた、とさいしょに聞いた。当時の記録は見当たらないが、たぶん、このときも、西正道さんと久保理也さんからお話を聞いた、と思う。
 当時、円通院のことを知り、「過去帳」を探して、亡くなっていた高橋住職の家族を探した。娘さんの連絡先を探し当て、電話で話したが、「過去帳」はないということだった。それから二十数年。円通院のことは気にかかっていたが、訪ねることができずにいた。
 2021年7月26日、杉浦新吉さんの娘さんの家を訪ねたあと、宇恵悟さんの案内で、円通院に行った。宇恵悟さんは、中学時代、筑後の社宅から楊枝の中学校への行き帰りに円通院の前を通ったという。高橋住職にも、ご家族のお葬式で会ったことがあるという。
 円通院は、木々が覆った川沿いの道路わき、低い山並みの裾に位置している、
そこは、何回も車で通ったことがあるところだった。周りに人家が一軒もない。紀州鉱山の調査をはじめたころ、車で道路を走りながらとつぜん現れた墓群におどろき、車を止めた。
 この墓は、紀州鉱山に関係がないか、朝鮮人の墓はもしかしてないか、と思い、墓の文字を読んだ。
 円通院は、いまは建物はないが、宇恵悟さんによれば、本堂があったという。
この本堂に置かれていた朝鮮人の遺骨が、高橋住職によって本龍寺に移されたのだ。
その後、本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨は、2017年11月に曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんが持ち去った。工藤英勝さんは、いま朝鮮人の遺骨はどこにあるかという問いに、「答えられない」(2019年11月25日、電話で)といった。



■本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨はいまどこに?■  
                                      金靜美

  「関西地域 民族教育関係者 研修会」で熊野に行くので、その準備のために、2019年11月16日、現在本龍寺の兼任住職をしているという新宮の宗応寺の住職と電話で話をしました。
 宗応寺の住職の話では、本龍寺の朝鮮人の遺骨は、曹洞宗の「宗務庁の人権擁護推進本部から来て持って行った」、「いまどこにあるかわからない」、「人権擁護推進本部から本龍寺に感謝状が届き、いま額に入れて本堂にかけてある」ということでした。
 工藤という人は、2008年7月、熊野地域に残されている朝鮮人の遺骨の調査をするということで、紀州鉱山の真実を明らかにする会に協力を依頼してきた曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんのことだと思います。紀州鉱山の真実を明らかにする会では、2008年7月15日・16日の二日間、会員が同行し曹洞宗人権擁護推進本部の「調査」に協力しました。

 ◆2019年11月25日、曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんと電話で話す
 11月25日、曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんと電話で話しました。
 以下は電話でのやり取りの要約です。
※キム:無縁塚から遺骨を持ちだしたのは事実か?(とまず確認し、その経緯を尋ねました)。
※工藤英勝氏:答えられない。
※キム:なぜ答えられないのか? 遺骨は現在どこに置かれているのか?
※工藤英勝氏:答えられない。
※キム:あなたの人権擁護推進本部での役職は何か?
※工藤英勝氏:答えられない。(重ねて聞くと)本部員です。
 いま日韓関係が????なので、返還できないで、そのまま置いてある。
      ※「?」は電話で正確に聞き取れませんでした。
※キム:これまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人のことを調査してきて、それを工藤さんは知っている、だから人権擁護推進本部の熊野の調査のときに、紀州鉱山の真実を明らかにする会に協力依頼してきた、本龍寺の遺骨の人たちを追悼する碑も作った紀州鉱山の真実を明らかにする会に一言連絡することは考えなかったのか?
※工藤英勝氏:お寺とお寺との関係で持って行ったので(このような表現でした)、そういうことは考えませんでした。
※キム:日本の寺が宗派の寺で保管してある朝鮮人の遺骨について調査を始めたのは日本政府の依頼であり、日本政府は、韓国政府の要請で、それにようやくとりかかった。韓国政府が日本政府にそれを要請したのは、韓国やわたしたちの会もふくめた民衆の要求に応じからだ。人権擁護推進本部が、それを無視して、紀州鉱山の真実を明らかにする会にひとことの連絡もなしにどこかに運んで、その所在も隠している。亡くなった人にも人権がある。その人たちの人権無視ではないか。
※工藤英勝氏:意見があるなら、宗務庁に意見を送ってください。
※キム:わたしは意見を言っているのではない、要請している。
※工藤英勝氏:(しばらく無言)。地元の人から要請があれば、(遺骨の保管場所について)教えることができるように検討する……。
 
 その後、久保理也さんに人権擁護推進本部に遺骨の保管場所を聞いてください、とお願いしました。
 本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨をはじめて見たのは、1997年11月16日、紀州鉱山の真実を明らかにする会の3回目の紀州鉱山「現地調査」のときでした。
このときは、本堂奥に、多くの位牌、遺骨といっしょに置かれていて、わたしたちは、朝鮮人の遺骨、5人を確認しました。
 在日本大韓民国民団三重県地方本部では、1980年10月に、三重県内に置かれていた朝鮮人の無縁仏』76柱を、韓国の国立墓地「望郷の丘」に移葬したということです(『民団三重50年史』民団三重50年史編纂委員会、在日本大韓民国民団三重県地方本部発行、1998年)。
 1980年10月に「望郷の丘」に移葬されたという76柱の名前の中に、1997年に紀州鉱山の真実を明らかにする会が本龍寺で確認した朝鮮人の遺骨もふくまれていたため、紀州鉱山の真実を明らかにする会では、その後、在日本大韓民国民団三重県地方本部に問い合わせましたが、当時、三重県内の遺骨調査と収集にかかわった人がいなくなり、その遺骨を収集した場所の記録や名簿の原資料も探せないということでした。
 以前慈雲寺の住職から、在日本大韓民国民団三重県地方本部がかなりまえに寺に置かれていた朝鮮人の遺骨を持って行ったと聞きましたが、このときのことと思います。


■2005年5月30日の『中日新聞』の記事「朝鮮人の遺骨 母国へ」を読んで■
                                    金靜美

 2005年5月30日の『中日新聞』に、本龍寺の朝鮮人遺骨に言及しつつ、大韓民国民団三重県本部が「(韓国への)遺骨移送への組織づくりを進めている」という記事が出ました(「朝鮮人の遺骨 母国へ」)。
 1980年10月に在日本大韓民国民団三重県地方本部が「望郷の丘」に移送したという朝鮮人の遺骨が本龍寺に残っている真相も不明で、さらに、2005年段階で、また、在日本大韓民国民団三重県地方本部が本龍寺に残されている朝鮮人の遺骨を「望郷の丘」に移送する準備を進めているということを『中日新聞』の記事で知った紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2005年6月21日、「大韓民国民団三重県本部のみなさんといっしょに、本龍寺の遺骨の真相糾明をふくめ、紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働の真相糾明をすすめたいと思います」という手紙を送りました。
 同年6月24日、在日本大韓民国民団三重県地方本部団長殷鍾秀、三重県日韓親善協会会長加藤純一の名前で、「真相糾明と遺骨の本国への安葬は別のものと考えており、ただただ異国の地でひっそりと眠っているご遺骨を、一日も早く母国の地に埋葬し、母国の地で安らかに眠っていただきたいとの一心」という返事が届きました。その後、在日本大韓民国民団三重県地方本部の事務局長韓九さん(当時)、在日本大韓民国民団三重県地方本部の関係者と会いましたが、本龍寺の遺骨の真相糾明について。共同調査を進めることはできませんでした。
 そして、本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨は、2017年11月に曹洞宗人権擁護推進本部が持ち去りました。
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