三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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西日本新聞 シリーズ戦後60年  私の8・15 6~7

2022年06月11日 | 個人史・地域史・世界史
https://web.archive.org/web/20070506202246/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/06.html
「西日本新聞」 20050726付 朝刊掲載
■私の8・15<6>  引き揚げ 街頭の人民裁判 日本人処刑された 佃亮二さん
 佃亮二(つくだ・りょうじ)さん(74) 福岡市中央区

 終戦は、鴨緑江(おうりょくこう)を挟んで北朝鮮と接する満州(現・中国東北部)の安東(現・丹東)で迎えました。旧制中学の二年生でした。満州は空襲がなかったので、終戦間際までは本土より平穏でした。緊迫したのは終戦六日前の一九四五年八月九日にソ連軍の侵攻が始まってからです。
 終戦後も修羅場でした。無抵抗になった街に、丸い弾倉が付いた楽器のマンドリンのような小銃を持ったソ連兵がやって来て略奪、婦女子への乱暴を繰り返しました。
 私の家にも銃を持ったソ連兵が「ダワイ(よこせ)、ダワイ」と叫びながら入ってきました。私と父は両手をあげましたが、突然銃が暴発して銃弾が父をかすめたのです。母と妹は、女と分かれば襲われるので、髪を短く切って顔にすすを塗っていました。
 終戦の二カ月後にソ連軍は撤退しましたが、今度は中華民国政府軍と中国共産党軍の内戦に巻き込まれました。中共軍が町を制圧すると、街頭で日本人に対する「人民裁判」が始まりました。街頭の台の上に日本人が立たされ「商売で不正をした」とか「中国人を殴った」などの罪状が読み上げられ、取り囲んだやじ馬が「殺せ、殺せ」と叫び声を上げるのです。
 まれに「ハオレン(いい人)」と擁護されて無罪になる人もいましたが、有罪と判断されれば死刑。馬車で町中を引き回されて、鴨緑江の河原で銃殺されました。処刑される日本人は最後まで毅然(きぜん)としていましたが、子ども心に「日本は負けたんだな」と感じ、満鉄(南満州鉄道)職員だった父も裁判で命を取られるのではないかと不安でした。
 何人もの日本人中学生が、中共軍に突然連れて行かれ、内戦の前線でざんごう掘りをさせられました。とうとう帰って来なかった先輩や同級生もいます。私は幸運にも終戦翌年の秋、両親と妹二人の家族五人でそろって日本に引き揚げることができました。
 満州は戦時中より戦後に混乱を極めました。当時、親を亡くしたり、生き別れになった子どもの中には、日本に帰れずに残留孤児になった人もいます。私も、もし両親と一緒でなければどうなっていたか…。私の経験など、苦労のうちに入らないのかもしれません。

◆引き揚げ 旧満州にいた日本人はさまざまな手段で帰国を目指した。安東からの引き揚げは一九四六年六月から開始。約五百キロ離れた渤海沿岸の葫蘆島から日本行きの米軍貨物船が出ていたが、中国の内戦で鉄道が寸断され、途中で徒歩を強いられた。


https://web.archive.org/web/20070506202819/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/07.html
「西日本新聞」」 20050727付 朝刊掲載
■私の8・15<7>  長崎原爆 「落下傘付き爆弾」第一報叫んだ 衛藤禎子さん
 衛藤禎子(えとう・ていこ)さん(78)福岡市南区

 一九四五年八月九日午前十一時二分。私は、長崎県佐世保市にあった旧海軍の統括機関「佐世保鎮守府」の防空指揮所で、各地の砲台からの情報を電話で受ける任務に就いていました。大村(長崎県大村市)の砲台から「落下傘付き爆弾がゆらゆら揺れている」という連絡が長崎原爆投下の第一報でした。電話を受けたあの瞬間は、今もはっきり覚えています。
 当時、原子爆弾という言葉はなく、広島に投下された翌日「落下傘付き特殊爆弾」と呼ぶと指示が出ました。広島の悲惨な状況はうわさで聞いていました。
 九日は朝から空襲警報が出て、私の電話がじゃんじゃん鳴りました。敵機が長崎に近づいているのが分かりました。「落下傘付き爆弾」の名前を聞いたとき、メモを取るより先に叫びました。ガラス越しに見える指揮台にいた参謀たちが一斉にこっちを振り返りました。凍り付いたようなあの目は忘れません。
 川棚(長崎県川棚町)の砲台からも同じ報告があり、私は、爆弾が佐世保に近づいていると思っていました。両親に知らせたくても任務を離れられません。「せめて死ぬときは両親と一緒がいい」と、両親のことばかり考えていました。
 当時私は十八歳。前年の春、佐世保高等女学校在学中に学校推薦で海軍に入隊しました。女学生も、ばね工場などに動員され、遊んでいる子は一人もいませんでした。海軍に行けたのは同級生二百人中十二人。選ばれたという誇りを持って働いていました。
 若かったんだと思います。四五年の五月、五歳上の兄が、大分の宇佐から特攻に出るのを見送りました。航空隊の入り口で泣き崩れている若い女性がいて「あんなに泣くなんておかしい」と反感を感じました。人前で泣いちゃいけないって、思ってたんです。恋人や子どもを戦地に送る気持ちが理解できなかったんだと思います。
 終戦の四年後に結婚しました。祝詞を挙げた時間まで覚えていませんが、八月九日の午前十一時二分に自分が何をしていたか、はっきり思い出せます。それは大勢の人が一瞬にして亡くなった瞬間です。戦争は嫌です。平和がいい。今もその時刻は黙とうしています。

◆長崎原爆 一九四五年八月九日、米軍機B29「ボックスカー」によって、長崎市に原爆が投下され七万四千人が死亡した。当初の攻撃目標は小倉(福岡県北九州市)の予定だったが、視界不良で長崎に変更された。
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