三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

西日本新聞 シリーズ戦後60年  私の8・15 8~10 

2022年06月05日 | 個人史・地域史・世界史
https://web.archive.org/web/20070908095447/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/08.html
「西日本新聞」 20050728付 朝刊掲載
■私の8・15<8> 女子挺身隊 兵隊さんの大きな靴作りよった 林ツユ子さん
 林ツユ子(はやし・つゆこ)さん(77) 大分県宇佐市

 終戦の前の年、秋でした。女子挺身(ていしん)隊として博多(福岡市)のゴム工場に出て、大きな靴を作るようになりました。たぶん戦場の兵隊さんに送る靴やった。靴底のゴムをのりで張り合わせる作業で、なかなか格好よく張れんの。こん靴はうまい具合になっちょっかなって心配しよった。十六歳、旧海西女学校(宇佐市)四年でした。
 空襲警報はしょっちゅう鳴ってた。作業場が二階で、滑り台を降りたところに防空壕(ごう)の入り口があるの。「そりゃ空襲じゃ」ちゅうてから、次々と滑り降りるから怖かった。高さもけっこうあった。つんのめったり頭打ったり。毎日こういうことの繰り返しやった。
 工場の寮は大部屋で、同じ女学校から来た十人で暮らしとった。ご飯には、馬にやるひしゃいだ大豆が入っちょった。残業して戻ると、先に戻った人が全部食べてしまっちょるんよ。悲しいちゅうか、やるせないちゅうか。一人が泣き出すんよ。「どうしたん」て言うて、みんな泣きよんの。寮の舎監さんが慰めてくれよった。五十歳ぐらいのいいおばちゃんやった。
 点呼が済んで消灯前、舎監さんが「きょう一日、第一線将士(兵士)の方々に恥じる行いなかったでしょうか」て言うんよ。廊下をカツカツカツって歩いて。澄んだ声で。私たちも「第一線の兵隊さんのご苦労に比べたら」ちゅう気持ちになって、総力戦に参加したつもりで頑張れた。
 大部屋では雑魚寝しちょった。布団にはシラミがいっぱいおった。生きとるよ。もぞもぞもぞもぞ。もう縫い目にびっしり。かまれるし、最初は気持ちが悪かった。それが慣れっこになって。シラミを取る間がないし疲れとるけん、眠られんちゅうことはなかった。
 あのころは「戦争に負けたときには大和民族は一人も残らん」て思うとった。今でいうマインドコントロールね。
 どんなに貧しくても生きていけると思った。今、華やかな生活をする学生たちを見るでしょ。「あーこれでいいんかしら」て思う。あの物資がなかった時代を通り越してきた人間には、今の華やかな時代が、かえってむなしく感じることもあるんよ。

◆女子挺身隊 戦争による労働力不足を補うための、女子の勤労動員組織。一九四四年六月以降、十二―四十歳の未婚女性が強制加入させられた。製鉄所や飛行機製造工場勤めをはじめ、看護婦、バスや鉄道の車掌、電報配達手など約四十七万人が働いたとされる。


https://web.archive.org/web/20070911182355/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/09.html
「西日本新聞」 20050729付 朝刊掲載
■私の8・15<9> 最後の特攻 寺司勝次郎さん 参謀に周到に筋書きされていた
 寺司勝次郎(てらじ・かつじろう)さん(77) 大分市三ケ田町

 「寺司練習生は二男だな」。「はい」。十秒間ほどの面接で、私は特攻隊員に選ばれました。十六歳で海軍飛行予科練習生になって一年半。東京などへの無差別爆撃が始まった一九四五年三月のことです。
 来るべきときがきた。冷静に受け止めつつ、英雄扱いされた特攻隊員としての腕前を同期生でもいち早く認められた誇らしさもありました。複葉の練習機に模擬爆弾を抱いて敵艦に体当たりする訓練にも熱が入ります。墜落寸前で命拾いしたこともありました。
 五月に原因不明の高熱と血痰(たん)で秋田日赤病院に入院しましてね。訓練が遅れる焦りや退院したくないという思いに悩みつつ、八月十五日を迎えました。廊下で整列して聞いた玉音放送は、ほとんど聞き取れません。窓の向こうに広がる青空と空襲被害でたなびく煙が印象的でした。
 気持ちは複雑でした。それでも、夕方には「お袋に会える」と落ち着き、私の戦争は終わったつもりでした。しかし、三十年以上もたって、その時間帯に故郷の大分から特攻隊が出撃し、同期生がいたことを知って、私は八月十五日に引き戻されました。
 この特攻は、宇垣纏(まとめ)中将の命令で玉音放送後に出撃したのです。“最後の特攻”としていくつかの文献はありましたが、いずれも上官の立場や資料で描かれ、命令される下士官の気持ちは分かりません。彼らの八月十五日を下士官の視点で明らかにすることが義務のようにも思えたのです。
 知人の作家の松下竜一さん(昨年死去)と一緒に不時着して生き残った隊員らを訪ね、証言を積み重ねました。隊員は玉音放送を聞けないように隔離され、重い爆弾を積むという理由で片道分のガソリンしか与えられませんでした。そして、機体は事前にきちんと整備されていたのです。
 この状態で中将自らが特攻すると言えば、私もためらいなく応じたでしょう。つまり、参謀陣に周到に筋書きされた特攻としか思えないのです。有事下では国や軍部が描く筋書きなど見えません。でも、平和な時代なら検証できるのです。
 版画家である私のライフワークは「瓦屋根」です。飛行機の眼下に広がる屋根の一つ一つに幸せな家庭があるんだな、と感じたことが原点にあるのかもしれません。そんな私たちのささやかな暮らしを守りたい。
 そのためにも、段階的に拡大する自衛隊のイラク派遣の筋書きを、きちんと見極めたいのです。日中戦争に突入していった時代と同じにおいがしてならないからです。

◆最後の特攻 玉音放送後の八月十五日夕、宇垣纏(まとめ)中将ら二十三人が大分海軍航空隊を十一機で出撃。沖縄沖の米艦隊に特攻をかけ、十八人が死亡した。故松下竜一さんは、この特攻を寺司さんと掘り下げ、ノンフィクション作品「私兵特攻」にまとめた。

https://web.archive.org/web/20070908215031/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/10.html
「西日本新聞」 20050802付 朝刊掲載
■私の8・15<10> 天皇の戦争責任 あの発言は今も変わりません 本島等さん
 本島等(もとしま・ひとし)さん(83) 長崎市

 近所で子どもたちのはしゃぎ声が聞こえます。長崎の光景は六十年の歳月の移り変わりと、平和を感じさせます。でも、どこかに違和感がある。あまのじゃくな性格だからでしょうか。あるいは左胸の傷のせいでしょうか。理由はうまく説明できません。
 一九四五年八月、私は熊本市郊外の山奥にいました。所属していた西部軍管区教育隊・砲兵生徒隊の疎開先でした。徴兵が旧制高校在学中の二十一歳と遅かったこともあり、見習い士官として新兵たちに大砲の撃ち方、つまり人殺しの方法を教えていました。
 生まれながらのキリスト教徒で父無し子。そして貧乏。幼いころから抑圧の中で生きてきた身にすれば、軍隊は居心地がよかった。何よりみんなが飢えているときに牛肉をほおばり、コメが食べられることに喜びを感じました。対価は天皇のため、お国のために敵を倒し、命をささげること。そう信じて、部下を殴りながら指導もしてきました。
 終戦は突然でした。玉音放送ではなく、部下たちのうわさ話で知りました。実はそれから一カ月の行動をよく思い出せません。脳裏に浮かぶのは、原爆が投下された長崎市浦上の風景です。見渡す限りの廃虚と、鼻を突く焼け焦げたにおい。九月の終わりごろだったと思います。
 戦後、教師や国会議員秘書などを経て、長崎市長になりました。その間、あの戦争は何だったのか自問してきました。原爆を落としたアメリカに怒りの矛先を向けた時期もありました。しかし、日本軍が中国で、フィリピンで、シンガポールで、被爆者以上の命を奪った事実が、私の中で戦争責任を明確なものにしていきました。
 昭和天皇に対するあの発言は今も変わりません。ただ、お一人だけの問題ではない。戦争の担い手は前線の兵士だけでなく、武器を造り、戦勝を祈ったすべての国民だったのですから。
 戦場に行っていない私は、平和なはずの日本で撃たれました。思想信条が合わないという理由で向けられた銃口はあの戦争にも通じます。過去の歴史と罪の痛み。それを子や孫に伝えるまで私の戦争は終わりません。

◆天皇の戦争責任 昭和天皇は太平洋戦争時、大日本帝国憲法により日本軍の最高指揮権(統帥権)者だったが、連合国側が開いた極東国際軍事裁判では、政治判断などから戦犯として裁かれなかった。昭和天皇が闘病中の一九八八年、長崎市長だった本島氏は議会で「天皇にも戦争責任はあると思う」と発言。その後、右翼活動家に狙撃され重傷を負った。
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