三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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西日本新聞 シリーズ戦後60年  私の8・15 4~5

2022年06月15日 | 個人史・地域史・世界史
https://web.archive.org/web/20070506202804/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/04.html
「西日本新聞」 20050722付 朝刊掲載
■私の8・15<4> 宇佐海軍航空隊 「身代わり特攻」どげんも言えん 賀来準吾さん
 賀来準吾(かく・じゅんご)さん(83)大分県中津市

 敗戦が色濃くなってきた一九四五年三月末。まだ桜の花が咲く前じゃったかなあ。「航空隊の隊員さんがトラックで来て広場に降りよるよ」て、近所の人が言うて。いやな予感がしました。
 宇佐海軍航空隊(大分県宇佐市)で対艦攻撃機の操縦教官をしていた私は、宇佐神宮近くの自宅で病気療養中でした。
 家の外に出ると、宇佐神宮で参拝を終えた隊員が、隊列を組んで「南無八幡大菩薩(ぼさつ)」と大書きしたのぼりを掲げて歩いてきました。みんな飛行服を着ちょったと思います。雰囲気で、ついに宇佐航空隊からも特攻隊が出ることが分かりました。
 先頭は山下博大尉。私が世話になった指揮官です。駆け寄ると隊の歩みが止まりました。山下大尉は私と握手しながら「具合はどうか。大事にしてくれよ」と言ってくれた。数秒間のやりとりでした。
 私が心臓を悪くし、熱を出したのは、その三週間前。日に日に忙しくなる操縦士養成訓練で無理をしたのが、たたったようです。山下大尉は「すぐ診察を受けて、なんも考えんでいいからしばらく休んでくれ」と言いました。その時は気づかんかったのですが、山下大尉は私と一緒に攻撃機に乗るつもりじゃったんですね。ところが、私の病気が長引いてしもうて…。
 あのときの隊列は確か四列じゃったと思います。山下大尉のすぐ後ろには、私と同じ操縦教官で同年兵の米山茂樹さんが立っちょりました。米山さんには奥さんと生まれたばかりの娘さんがおって。どげん言うていいか。「頑張って」とも言えんし。私の身代わりちゅうことも分かっとるから。ただ、目を合わせて固く手を握りました。
 四月六日。山下大尉と米山さんが乗った対艦攻撃機は、南方の海へ飛び立ちました。一カ月間で八十一機百五十四人。東風に乗り、みんな飛んでゆきました。まるで桜が散るようじゃった。
 一カ月後、茨城県の米山さんの実家にお参りに訪れると、奥さんが米山さんの帰りを待っちょったです。米山さんは妻子に黙って出撃しちょったのです。私は何も言えず引き返しました。
 昨年の夏、宇佐の特攻隊全員の名前と出撃日を書いた慰霊碑を、宇佐航空隊の飛行場跡地に建てました。祖国のためと信じて若くして散った彼らのことを忘れないために。それが、生き残った私の務めじゃと思うちょります。

◆宇佐海軍航空隊 一九三九年十月、対艦攻撃機の操縦士らを養成するために開設。戦局が厳しくなった四五年四月六日から五月四日にかけて、百五十四人の隊員が特攻隊として、鹿児島県内の基地を経由して沖縄方面に出撃、米軍艦隊に体当たりした。


https://web.archive.org/web/20070506202558/http://www.nishinippon.co.jp/news/2005/sengo60/sengo5/05.html
「西日本新聞」 20050723付 朝刊掲載
■私の8・15<5>  福岡大空襲 遺体は全部黒い色をしていた 川口勝彦さん
 川口勝彦(かわぐち・かつひこ)さん(72) 福岡市早良区

 人には消せない記憶があります。私の場合、それは、まるで火の雨のように焼夷(しょうい)弾が降った福岡大空襲です。そして、あの大空襲で、私の家のすぐ近く、福岡市下川端町の第十五銀行(現・博多座)の地下で焼死した六十人余の犠牲者のことです。その姿はあまりにもむごく、一人ひとりの姿が今でもはっきり脳裏に焼き付いています。
 当時、私は十二歳。国民学校の六年生でした。あの日も、いつものように灯火管制の下、暗い部屋で床に就きました。枕元には、鉄カブト、防空ずきん。足にはゲートルを巻いたままでした。
 午後十時半、ラジオで情報注意報の放送があり、注意報はすぐ警戒警報に変わり、間もなく空襲警報に変わりました。一斉に「ウー、ウー」とサイレンが鳴り、母と姉二人と一緒に自宅の畳をはぐって、一坪ほどの壕(ごう)に入りました。間もなく、世話役の男の人から安全な所に逃げるよう、指示があり、外にでました。
 南の空が真っ赤に染まっていました。米軍のB29から、焼夷弾が次々に投下されていたからです。その音は、まるで絹を裂くような音、あたりは火の雨が降っているかのようでした。
 四人で、どこに逃げるか、避難先を探しました。近くの櫛田神社、旧博多駅、そして第十五銀行ビルの地下はすでに満員と聞きました。それで、東公園を目指し、その途中、寺の防空壕に避難しました。
 空襲は午前一時ごろには終わり、まんじりともしない一夜が明けました。家に戻る途中、ほとんどの建物が焼き尽くされ、博多湾が丸見えだったことを忘れません。幸い火は、私の家の数メートル先でくい止められていました。
 昼すぎ、第十五銀行地下で犠牲になった人たちが、強制撤去された私のもとの家の跡地に運ばれてきました。むしろを敷き詰めた上に次々と運ばれてくる遺体は、全部黒い色でした。小さな子を抱きしめたまま息絶えた母親。空をかきむしるような姿で亡くなっていた男の人。中には、頭がない人、靴だけはいてあとは何も身につけていない人もいました。
 熱かったろう、苦しかったろうと、私はぼうぜん自失状態でした。あんなむごい死はもう二度とみたくありません。
 あれから六十年がたちます。もう戦争は絶対にしてはいけない。日本は「平和を守る」ことから一歩進めて、積極的に「平和を創(つく)る」国にならなければいけないと思います。

◆福岡大空襲 一九四五年、六月十九日、サイパン、テニアンから出撃した米軍B29爆撃機二百二十一機によって、福岡の市街地が爆撃された。
 「福岡市史」によると、被災家屋は一万二千六百九十三戸、被災者は六万五百九十九人(うち死亡九百二人、行方不明二百四十四人、重傷五百八十六人、軽傷四百九十二人)に上った。
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