三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ3

2008年01月04日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅱ、証言 2
映像: 日本軍が襲った家の跡で証言する朱光清さん
テロップ: 朱光清さん(1934年生)
影像:母が殺された場所を示す朱光清さん
映像:腹部の深い傷跡、右足首上部の細長い傷跡を示す朱光清さん
ナレーション:朱光清(ジュ・グァンチン Zhu-Guangqing)さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ、陽はのぼっていなかったといいます。
 その家のあった場所で、朱光清さんは、
  「とつぜん日本兵が家に入ってきたとき、わたしは母といっしょだった。
  お辞儀をしている母を日本兵は日本刀で切った。
  倒れた母を日本兵はなんども刺して殺した。
  わたしは、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびでた。
  手でおさえて逃げるとき、左足を切りつけられた。
  血がいつまでも止まらなかった。日本刀で5か所切られていた。
  殺されたとき母は、43歳だった。
  父は日本軍がくる前に死んでいたので、両親がいなくなった」
と話しました。

映像:朱学基(ジュ・シュェジ Zhu-Xueji)さん
テロップ:朱学基さん(1940年生)
テロップ:日本兵が私の家の隣の
      朱光清の家に来たとき
テロップ:何回も“助けてくれ”という声が
      聞こえてきた
テロップ:“助けてくれ”
テロップ:朱光清が刺され腸が
      飛び出していた
テロップ:朱光清が飛び出した腸を
      手で押さえ
テロップ:わたしの家のほうに
      走ってきた
テロップ:母親がそれを見て
      わたしを抱いて
テロップ:裏から逃げた
テロップ:そのあと日本兵が
      わたしの家を襲った

映像:朱進春さん
テロップ:朱進春さん(1937年生)
ナレーション:朱進春(ジュ・ジンチュン Zhu-Jinchun)さんは、日本刀で8か所傷つけられましたが、生き残ることができました。
 朱進春さんは、月塘村虐殺の日本政府の責任を追及する訴訟を起こしたいと、言っています。

映像:朱学超さん
テロップ:朱学超さん(当時3か月)
ナレーション:朱学超(ジュ・シュェチャォ Zhu-Xuechao)さんは、下腹部を刺され、睾丸をひとつ切り取られたそうです。
 朱学超さんは、そのとき、祖父の朱鴻里(ジュ・ホンリ Zhu-Hongli)さん、父の朱開輝(ジュ・カイホェイ Zhu-Kaihui)さん、兄の朱学金(ジュ・シュェジン Zhu-Xuejin)さん、姉の朱桂二(ジュ・グォェィアル Zhu-Guier)さんと朱桂三(ジュ・グォェィサン Zhu-Guisan)さんを失いました。
 祖父は67歳、父は44歳、兄は8歳、姉は5歳と3歳だったそうです。

映像:朱秀容さん
テロップ:朱秀容さん(1936年生)
ナレーション:朱秀容(ジュ・シュゥロン Zhu-Xiurong)さんは、
 「あの日、日本軍は、祖母と3番目の伯母と、わたしと、もう一人の4人をつかまえ、銃をつきつけて並ばせ、お辞儀をさせた。
 日本軍は、ひざまずいた祖母の首を切った。3番目の伯母が殺される瞬間、わたしは逃げた。隣りの家との間の細い隙間をとおりぬけて走った。こわくて、どこまでも逃げた。
 山に入りしばらく家に戻らなかった。食べるものも着るものもなかった。当時、万寧一帯は大飢饉だった。飢え死にした人がたくさんいた。
 まもなく日本軍が負けて海南島からいなくなったが、そのとき日本軍を殺す機会がなくなったことが悔しかった。日本兵を恨みつづけてきた」
と話しました。
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