三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ2

2008年01月03日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅱ、証言 1
映像:朱学平さん(自宅で、殺戮現場で、月塘村の道で)
テロップ:朱学平さん(1933年生)
テロップ:ここから 腸が出ていた
テロップ:私は 柱の影に隠れていたので 助かった
テロップ:朱学平さんの家の土台石
ナレーション:朱学平(ジュ・シュェピン Zhu-Xueping)さんは、
 「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。
 わたしだけが生き残った。
 母、兄の朱学温(ジュ・シュェウェン Zhu-Xuewen)と朱学敬(ジュ・シュェジン Zhu-Xuejing)、姉の朱彩和(ジュ・ツァィホ Zhu-Caihe)、叔母2人、いとこ2人、そして6歳だった妹の朱彩蓮(ジュ・ツァィリェン Zhu-Cailian)が殺された。
 わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。
 妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
 血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。
 激しい雨が降った。村はずれに隠れた。
 半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。
 遺体も火にあっていたが、骨になりきっておらず、くさっていた。
 まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(ワンニンWanning)から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
 その5年前の1940年11月28日に、父の朱開廉(ジュ・カイリェン Zhu-Kailian)が、近くの東澳(トンアォ Dongao)村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれて殺されていた」
と話しました。
影像:畑からの帰り道、クワをかついで遺骨が埋められたと思われる場所に近づく朱学平さん
影像:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
テロップ:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
ナレーション:朱学平さんは、
 「日本軍が負けていなくなってから、遺骨を探した。
 遺骨が埋められたと思われる場所をなんども掘って探したが見つからなかった。 焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う」
と話しました。
映像:朱学平さんのむかしの家の跡
テロップ:日本軍が襲撃した朱学平さんの家の土台石
テロップ:むかしの家の門の跡を示す朱学平さん
影像:その向かいの朱開琨さんの家の跡
テロップ:朱学平さんの家の向かいは
     朱開琨さんの家だった
     土台石が残っているだけ
映像:むかしの家の跡で話す朱開琨さん
テロップ:朱開琨さん(1935年生)
     むかしの家の跡で
ナレーション:朱開琨(ジュ・カイクン Zhu-Kaikun)さんの家に入ってきた日本兵は、4人を殺し、そのあと家に火をつけました。
 朱開琨さんは、いちど刺されましたが、台所の小さな門のかげに隠れ、日本兵がいなくなってから逃げたそうです。

映像: 自宅の中庭で話す朱建華さん
テロップ:朱建華さん(1944年生)
ナレーション:朱建華(ジュ・ジェンホァ Zhu-Jianhua)さんは、当時、生後8か月で、お母さんが抱いてかばってくれたそうです。
 お母さんも朱建華さんも刺されながらも命を奪われませんでしたが、4歳の兄は刺され、即死したそうです。
 このとき、叔父さん4人と、叔母さん2人も殺されました。
 その叔父さんの1人は、日本刀で腹を刺され、のどが渇いて水を飲んだら、腸がとびだしたそうです。
影像:日本軍に刺された数か所の傷跡を示す朱建華さん
テロップ:日本軍がここを刺した
テロップ:そしてこの家を焼いた
映像: 廃墟の前で話す朱建華さん
テロップ:ここでも家が壊され 10人が殺された
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