ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(97):中津権現社

2013-06-09 07:20:28 |  ・加古川100選

 中津権現社      *加古川町中津

中津権現社に、説明板があるので読んでおきたい。

   中津構居跡

播磨鑑(宝暦二年)に

梶原冬庵古城跡 大野郷在中津村 今農家ノ居屋敷ト成

鎌倉権五郎景政ノ末葉 天正年中秀吉ノ為ニ神吉城ニ於テ討死ス

とあり、播州古城記には

 中津城 中津村 鎌倉権五郎景政ノ末葉 梶原十右衛門の居城也

 天正中神吉式部貞範に従いて討死す

と記されている。

               平成三年三月

                  加古川市教育委員会

 援軍は来らず 

 Asaza_011三木城の戦いで三木側についた加古川地方の諸城は当然毛利軍の援軍を頭に描いていた。そして、三木城の援軍を思っていた。

 瀬戸内海を圧して進んでくる頼もしい毛利の援軍の光景があった。

 三木方にとっての最大の不運は、毛利方には余裕がなかったこと、そして、何よりも毛利家は天下に覇を求めなかったことにあった。

 最後まで、強烈な毛利からの援軍はなかった。

 神吉城の戦い(天正6年・1567)は、当地方では最大の戦いであった。しかし、この戦いでも三木城方からの支援はほとんどなかった。

   梶原冬庵

梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきたいが、多分に伝承の域を出ない。

三木方からはわずかに梶原冬庵(かじはらとうあん)等数名の援軍があっただけである。 

冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったという。
 冬庵の館は、加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われ、現在はそこに権現神社が建っている。

 *写真:中津権現社 

コメント