河合寸翁(かわいすんのう)
河合道臣(みちおみ)は、姫路藩の家老で、後に河合寸翁(すんのう)といった。
藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5年(1808)、姫路藩には73万石の借財があった。
寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布を姫路藩の専売にし、藩の財政改革に取り組み、みごと借金ゼロを成し遂げた。
寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法をとったが、さまざまな妨害もあった。
しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6年(1823)やっと江戸への木綿専売が幕府に認められた。
これは、「藩主・酒井忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれている。
ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができた。
藩主は、この功績に対して寸翁の希望をかなえた。寸翁の願いは、有能な次代の人材を育てる学校を創設することであった。
(寸翁は、綿の専売の外にも多くの産業の振興を手掛けている)
仁寿山黌(じんじゅざんこう)
姫路藩には好古堂という藩校ができた。好古堂では藩士の子弟に学問や武芸を教えた。
激動の時代である。河合寸翁は、好古堂学問所に協力するかたわら、有意な次代の人材を育成するため、仁寿山の麓に学校を設立した。
文政6年(1823)正月、教場、図書倉、教師館、食堂から塾舎、医学寮までが整然と整い、朱子学を基にした伸びやかな学校であった。
上記の「教師館」に注目してほしい。この教師館は、「水楼」と名付けられ、外部からの儒者(教師)などの迎賓館(宿泊所)である。頼山陽も、しばしば招かれている。
寸翁の仁寿山黌の開校によって、藩校・好古堂と寸翁の仁寿山黌が競合することになった。
自主性を重んずる仁寿山校に学んだ多くの青年たちは、寸翁が意図するところとは別のところで、勤王運動へ突き進んだ。
仁寿山黌は、藩としては好ましい存在ではなくなった。
仁寿山黌は、開校20年後の天保13年(1842)、財政難を理由として藩校・好古堂に吸収された仁寿山校は潰された。
天保12年(1841)6月24日、寸翁が75歳で永眠した。その1年後のことであった。
好古堂は、明治3年まで続くが、その間水楼も考古堂の施設として使われている。
その後、なぜか水楼は別府(加古川市)へ移築された。
次回、その顛末をみたい。