ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(99):鶴林寺①

2013-06-11 05:48:30 |  ・加古川100選

   鶴林寺(その1)    *加古川町北在家

004「かこがわ100選」も99号になった。読者の方から「一番目に取り上げてよい鶴林寺がないではないか」との声が聞こえてきそうである。

別に「ひろかずのブログ」も2100号を超えが、鶴林寺について、まともに取り上げていない。

書くのを若干ためらっている。

鶴林寺やその檀家の方、そして加古川市観光協会等から、お叱りが聞こえてきそうである。

加古川市史の一番よりどころは、『加古川市史』である。

『加古川市史』で鶴林寺か所を執筆されたのは神戸大学で長く教鞭をとられた(故)石田善人先生である。

鶴林寺について石田先生や歴史学会の説を「かこがわ100選(9910)」で若干紹介し、後日別に鶴林寺と鶴林寺が加古川地域にはたした役割を取り上げたいと考えている。

ここでは「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と始めるが、鎌倉時代以来、鶴林寺のはたした役割は、あまりにも大きかったことを最初に書いておきたい。

    鶴林寺は聖徳太子の創建ではない

鶴林寺は、その縁起によれば用明天皇二年(587)聖徳太子が秦河勝に命じて、ここに三間の精舎を建立し、高麗の僧恵便(えべん)を住持せしめ、百済の日羅(にちら)も当寺に住んだと伝える(鶴林寺縁起)。 *用明天皇:聖徳太子の父

「刀田山」という珍しい当寺の山号は、百済に帰国しょうとする日羅を聖徳太子が神通力で田に刀を林立させて妨げ、怖れをなした日羅に帰国を断念させたことによるという。 寺院の縁起にはあまり似つかわしくない説明をしている。

用明天皇二年といえば聖徳太子は十五歳ばかりのころだから、幼児から聡明をもって聞こえた太子にしても、大和から遠いこの地(加古川)に伽藍を建立させたとは思えない。

・・・中略・・・

現在の鶴林寺の寺域からは、飛鳥時代はおろか奈良時代にまで遡りえる古瓦は全く発見されていないが、このことは現在の寺域には奈良時代には寺院が存在しなかったことを示している。(『加古川市史・第一巻』より)

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