原兵庫頭 *東志方広尾
東志方広尾と言いながらほとんど小畑西(平荘町)に近い、広尾字二塚に、「原兵庫頭(はらひょうごのかみ)」の塚(写真)がある。
古老によれば、「塚の位置は、昔と変わらないが、もっと広く、頂上は平らで小さな丘であった」という。
現在は、東西5m、南北4m、高さ1mの方形区画として残っている。
塚の頂上に「原兵庫頭」の墓標があり、表面に、「原兵庫頭之墓」、裏面に「吉廣村 家系一族建立」と記され、側面には「天正六戌寅歳」、「七月二十日卒」とある。
「原兵庫頭は、天正六年(1578)七月二十日に亡くなり、吉廣村(現在の広尾西)の一族がこの墓標を立てた」とおもわれる。
原兵庫頭は、どのような人物だったのだろう。
亡くなった天正六年(1578)に注目してほしい。
兵庫頭、三木合戦に死す
天正六年の志方地方の状況をみておきたい。
この頃、志方城は、毛利に味方した三木の別所氏に味方し、信長軍(志方城の戦いは信長側の大将は、信長の長男・信忠)と激突した。
加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦った。
まず、野口の城(加古川市野口町)が落城し、ついで、神吉城が7月に信長方の大軍におしつぶされた。
その後、信長軍は志方城へ攻めよせたのである。
志方城には1.000余騎が立て籠もり、勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説があるが、この時の戦いの詳細は、はっきりとしない。
志方城に先立つ神吉城の戦いでは、神吉方2.000の軍勢は、織田方の30.000の軍勢に押しつぶされ、そして城主(神吉頼定)も討たれた。
この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はなかった。
志方城の戦いでも援軍はなかったようである。
天正六年八月、ついに志方城は落城した。
「原兵庫頭」は、三木合戦で信長の軍勢と激しく戦い、亡くなった人物のであろう。
原兵庫頭は円照寺の中興に関わる人物
また、花の寺でよく知られている東志方広尾の円照寺記に「原兵庫頭は、嘉吉の乱で焼失した寺の再興を志し、現寺院の西に庵を建て、この時浄土真宗の寺とし、また、織田信長との戦いに参加し、一族郎党ことごとく浄土真宗を死守のために殉じた」とある。
兵庫頭についての詳細は不明であるが、年代的に志方城の戦いに関係した、広尾の武人と思われる。