別府町新野辺に河合寸翁の
学問所・水楼(迎賓館)があった
別府町新野辺町内会で、『新野辺の歴史(第一巻)』を製作している。
ほぼ、でき上がって、現在印刷所にまわっている。
来月の中旬には、町内会に配布できる。
きょうは、その話ではなく、製作作業の中で、「かつて、別府町新野辺に河合寸翁の学問所・仁寿山黌(じんじゅざんこう)の水楼(迎賓館)があった」という話がでた。
「ウッソー」と半信半疑で調べると、なんと『加古川市誌(第二巻)』その記事をみつけた。
水楼の軒瓦
その顛末を書きたいが、先にもう少し余話をしておきたい。
新野辺のUさんは「仁寿山黌の水楼の軒瓦には鷹の模様の瓦(写真)が使われており、たしかに家に、新野辺にあった水楼の軒瓦が一枚あったはず・・・」といわれた。
この瓦について、捜してもらったが、みあたらなかった。が、話は続いた。
この紋様について河合寸翁の研究家の藤戸孝純氏は、「仁寿山黌の瓦の文様は河合家の家紋である鷹、それもクマタカを図案化したものである」とされている。
「でも、私(Uさん)の旦那寺にも同じものがあります・・・」とのことで、26日午前中、姫路市的形の尊光寺に出かけた。
お訪ねすると、瓦が本堂に並べられており、確かに仁寿山黌の鷹の紋様の軒瓦である。
なぜ尊光寺に?
尊光寺の方の話では、仁寿山黌がつぶされた時、その瓦の一部が尊光寺に運ばれ、山門の瓦に使われたが、その理由は分からないそうである。
「その後、山門は傷み、新しくした。その時多くの瓦を処分した」とのことで、現在、鷹の紋様のある瓦は、保存のため姫路市が持ちかえられた2~3枚と、現在尊光寺に残された瓦だけで、貴重な文化財となっている。
<お知らせ>
新野辺の水楼・河合寸翁の話は、この号も含めて4回シリーズでその顛末を説明したい。
従って「官兵衛、こぼれ話」は、その間お休みとします。
*写真:仁寿山黌に使われた鷹紋様の軒瓦