ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

余話・新野辺に仁寿山黌の迎賓館が(1)

2013-06-27 06:02:12 |  ・加古川市別府町新野辺

別府町新野辺に河合寸翁の

学問所・水楼(迎賓館)があった

Kawai_272別府町新野辺町内会で、『新野辺の歴史(第一巻)』を製作している。

ほぼ、でき上がって、現在印刷所にまわっている。

来月の中旬には、町内会に配布できる。

きょうは、その話ではなく、製作作業の中で、「かつて、別府町新野辺に河合寸翁の学問所・仁寿山黌(じんじゅざんこう)の水楼(迎賓館)があった」という話がでた。

「ウッソー」と半信半疑で調べると、なんと『加古川市誌(第二巻)』その記事をみつけた。

     

   水楼の軒瓦

その顛末を書きたいが、先にもう少し余話をしておきたい。

新野辺のUさんは「仁寿山黌の水楼の軒瓦には鷹の模様の瓦(写真)が使われており、たしかに家に、新野辺にあった水楼の軒瓦が一枚あったはず・・・」といわれた。

この瓦について、捜してもらったが、みあたらなかった。が、話は続いた。

この紋様について河合寸翁の研究家の藤戸孝純氏は、「仁寿山の瓦の文様は河合家の家紋である鷹、それもクマタカを図案化したものである」とされている。

「でも、私(Uさん)の旦那寺にも同じものがあります・・・」とのことで、26日午前中、姫路市的形の尊光寺に出かけた。

お訪ねすると、瓦が本堂に並べられており、確かに仁寿山黌の鷹の紋様の軒瓦である。

     

   なぜ尊光寺に?

尊光寺の方の話では、仁寿山黌がつぶされた時、その瓦の一部が尊光寺に運ばれ、山門の瓦に使われたが、その理由は分からないそうである。

「その後、山門は傷み、新しくした。その時多くの瓦を処分した」とのことで、現在、鷹の紋様のある瓦は、保存のため姫路市が持ちかえられた23枚と、現在尊光寺に残された瓦だけで、貴重な文化財となっている。

 <お知らせ> 

新野辺の水楼・河合寸翁の話は、この号も含めて4回シリーズでその顛末を説明したい。

従って「官兵衛、こぼれ話」は、その間お休みとします。

 *写真:仁寿山黌に使われた鷹紋様の軒瓦

コメント
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