ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛、こぼれ噺(4):生石神社

2013-06-17 07:25:33 | 黒田官兵衛

生石神社(おうしこじんじゃ)

      *高砂市阿弥陀町生石

 Photo「官兵衛、こぼれ噺」は、時代は前後する。整理してお読み願いたい。

三木の籠城戦は、1年10ヵ月つづいた。

ほとんどの食糧補給のルートが止まった。

秀吉は、三木城に降伏をせまった。

三木城から返事が来た。

「ご憐憫をもって城兵を助けおかるれば、某(それがし・三木城主別所長治のこと)腹をきるべく相定め訖(おわんぬ)」という文面であった。

天正8年(1580)年117日、別所氏一族が自害した。

三木合戦は終わった。

  生石神社の宮司は、神吉頼定の弟

      秀吉に反抗し、生石神社焼失

この戦いで、近隣の多くの寺院は、ほとんど焼かれた。何らかの理由で難を逃れた寺社もあった。

その一つに高砂の生石神社があった。生石神社の御神体は「石の宝殿」である。

宮司は、神吉城主・神吉頼定の弟であった。

神吉城を攻めたのは、信長の長男・信忠で、この時秀吉は竹田城で毛利の軍のこうさくをしていた。

Photo_2 このこともあり、生石は秀吉に対して非協力的な態度を取ってきた。

神吉城攻撃の時、秀吉は、使者を送り生石神社の南の地を借りたいと申し出たが、宮司は当然のごとく断った。

三木城が落ち、三木合戦が終わった後も、生石神社は秀吉側に味方する態度をとらなかった。

時の流れに逆らったのである。

天正8年(158129日のことであった。

秀吉は、大いに怒り、弟の秀長を大将として2000の兵で生石神社を攻めた。

神社の四方から火をかけた。

おりからの強風に、神社はたちまちのうちに灰と化した。領地も取り上げた。

生石神社は、その後、氏子たちにより神社は再建されたが、昔の威容は失われた。

以下は、余話である。

焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いに西軍・石田三成の方の大谷吉継の陣鐘として使用された。

徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進している。

鐘の表面には、応永26年乙亥(1419) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれている。

*写真上:生石神社の前殿と本殿

 〃 下:元生石神社の鐘(現:大垣市安楽寺)

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 官兵衛、こぼれ噺(3):太閤岩 | トップ | 官兵衛、こぼれ噺(5):く... »

コメントを投稿