鶴林寺に残る「禁制」が語ること
三木城の戦いでは、近在の多くの寺は三木側に味方し、秀吉・信長軍に焼かれた。
野口城の戦いを例にしたい。
先に、教信寺は野口城と共に闘い焼かれ、多くの寺宝が焼失したことを紹介した。
そのために、多くの寺は焼かれ、寺宝を失っている。
しかし、鶴林寺には多くの寺宝が残っている。なぜ・・・
鶴林寺は、「太子信仰」の盛んな寺で、たいへんな庶民の信仰を集めていた。
信長・秀吉はそんな庶民の信仰を集めている鶴林寺を敵にしたくなかったのであろう。次の触れを出している。
鶴林寺に残る禁制
一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺に残っている。読んでみたい。(意味のみ)
鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる
軍勢が一般人に乱暴を働くこと
陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること
田畑を荒らすこと
これらに違反するものは速やかに厳罰に処す
天正六年三月二五日 筑前守(*秀吉のこと)
秀吉は、鶴林寺の調略に成功し、鶴林寺に攻撃しないことを約束している。
この禁制の日にち(三月二五日)に注目したい。四月、三木攻は、野口城の戦闘から始まったが、鶴林寺は多くの宝物を焼失せず、今日に伝えている。
以下は、勝手な想像である。
官兵衛の影?
近隣の、ほとんどの城・寺が三木城に味方する中で、鶴林寺でも判断を迫られた。中立は許されなかった。
結論的には、秀吉側につくことを選択したが、この判断の背中を押したのは誰(何)であったのだろう。
この辺りの城の中で加古川城だけは、秀吉側についたが、それに倣った行動だったのだろうか。
それにしても、秀吉側に味方するという加古川城の判断の裏には官兵衛の働きがチラつく。
鶴林寺も当時の状況からして官兵衛からの働きかけがあったとしか思えない。
官兵衛は、加古川城と一緒に調略したのかもしれない。
軍師の行動は、表に出ない。記録も、何も語らない。
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