ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(249):中村を歩く③・小山五郎右衛門(その3)

2010-07-08 10:37:32 | 稲美町

「相の山」について少し説明しておきます。

現在「相の山」は、町名として名前を残していますが、これは戦後開発された新興の住宅地域です。

もとは、現在の「六分一山」から印南地区につらなる山林地帯の指した呼び名でした。

野際(のぎわ)の集落は、その山林に接する地域であることからつけられた村名のようです。

この「相の山」地域は明石郡と接しており、しばしば争いを起こしました。

寛文6年(1666)にも郡境をめぐる争がありました。

郡境が確定され、加古郡の土地として相の山周辺には原野がひろがりました。

その頃、五郎衛門は気鋭の青年でした。

  「蛸草新村」の開発!

Inamimachi7_077 やがて、五郎右衛門は、絶大なる政治力を持つ大庄屋に任命されました。

彼は、相の山周辺に広がる原野に目をつけました。

五郎右衛門は西条組の大庄屋(沼田与次太夫)を抱きこみ、強引に相の山周辺、つまり蛸草新村の開発を進めました。

元禄10年(1697)のことです。

開発当時は畑のみでしたが、元禄15年(1702)に村のもっとも上手にため池造りをはじめ、翌16年(1703)には広沢池・広谷池(明治24年拡張)を築き、水田2町歩を開きました。

蛸草大池(天満)大池の上流に池を築くことは、天満大池の水が少なくなり蛸草郷の反対があり難しい問題を抱えるのがふつうですが、五郎右衛門の強引な政治力が可能にしたようです。

五郎右衛門の倅の久右衛門は蛸草新村の初代の庄屋になっています。

新田に蛸草新村と名づけたのは、入植者の多くが蛸草郷出身者で占められていたからでしょう。

現在、蛸草集落の旧家の多くが中村の円光寺や北山の常泉寺を旦那寺としているのは、ここに源がありあます。

しかし、現在、蛸草には小山姓を名のる旧家はありません。

    写真:蛸草中条墓地の碑と碑文

              開発人

     月洲智昭居士 小山五郎右衛門

              先祖子孫者

              敬之

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする