きょうのブログは「国岡の歴史」としてもお読みください。
姫路藩は開発ブーム
北山(稲美町天満北山)の歴史探訪をしています。やはり、水のことが気になります。
北山集落と周辺の集落との水利問題です。
当然のことながら、江戸時代以前、加古新村も国岡新村も、まだ誕生していません。
北山集落あたりの水は、北山村が独占して使うことができました。
しかし、江戸時代の初期は、戦国・織豊時代における土木技術の発達により、姫路藩では水利改良や新田開発がさかんに行われるようになりました。
17世紀の間に、表高15万石といわれた姫路藩の米の生産高が、新田の開発により、なんと1万3700石も増加しています。
その開発の中心になったのが印南郡と加古郡で、とりわけ加古郡は姫路藩の中で、もっと多くの新田が開発されました。
その新田開発のひとつのピークは1660年代です。
水が少なくなる
北山村の北の加古新村は、万治元年(1658)に開発が始まりました。
東の国岡新村は、寛文2年(1662)に誕生しました。
北山村の地形は、北と東に高く、水は北からそして東から集まりました。
が、北には加古新村が、東には国岡新村ができると、当然北山村への水の流れは少なくなります。
北山村にとっては、近隣の集落の誕生は死活問題となりました。
特に、国岡新村の開発には、大きな争いの種を含んでいました。
この時期、姫路藩は年貢の増収を目指していました。
そのため、国岡新村の開拓を奨励します。そして、北山村の水の一部を国岡新村に分けることを命令しました。
北山村としても藩の命令となれば反対するわけには行きません。
しかし、すんなり受け入れることもできません。
そのため、北山村としてはで国岡新村に対し条件闘争を展開することになります。
どのような条件闘争で解決するのか次号の「国岡の歴史」で報告しましょう。