ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(267):国岡の歴史(6)。水を求めて②・藩権力

2010-07-25 12:16:40 |  ・稲美町国岡

Febe5c34 国岡新村の開発は地形の関係上、北山集落に遮断されており、直接、国岡新村の池に流すことができません。

どうしても、いったん「入が池」に貯蔵する必要があります。

水利慣行を変更することは、大問題でほとんど不可能でした。

しかし、国岡新村は、藩の権力(命令)により、風呂谷流の水の30%を「入が池」集め、その水を国岡新村の千波池に移し利用できるよう命令があり実現することができました。

入が池を国岡新村と共同で利用するとなると、利害の対立も考えられます。

藩の命令といえども、北山村にとって、すんなり認める分けにはいけきません。

そこで、北山村は国岡新村との条件闘争になりました。

国岡土地改良区に残る「にうか池證文之事」(寛文11年・1671)に記録が残されています。

*「にうか池」は「入が池」のこと   <msnctyst w:st="on" addresslist="30:北山村;" address="北山村"></msnctyst>

   北山村からの要求

    入が池は古来、北山村所有の池であったが国岡新村の開発のために小さかった池の堤防を3尺高く築く。

    そのために、池の面積を拡大するために、国岡新村は野寺村の土地8反8畝14歩を買い上げる。

    「入が池」のもとの貯水量を示すところに分切石(ぶんぎりいし)をすえ、分切石より上の水を新流溝からの流水として、それを国岡新村と北山村の2村の間で5分5分にすること。

そして、この文書には、内容を確実にするために、契約書の裏に2名の藩の奉行の署名があります。

こうして、国岡新村は、風呂谷地区の水を千波池へ取り入れることができるようになりました。

藩の命令があったというものの、古くからの水慣行の変更には、大変な難しさがありました。

 それでも水が不足に!

ところが、新田開発が進むにつれ風呂谷地区からの灌漑用水は、たちまちに限界にたっし、宝永8年(16806月、草谷川を水源とする新たな引水計画が建てられました。

草谷川の非灌漑木である旧7月~翌年4月までの期間に取水し、これを溜池に貯蔵しておくことにより、用水を確保しようとしたのです。

これが大溝用水です。

次回の「国岡の歴史」で、調べることにします。

*地図で入が池・千波池の位置を確認ください。

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