『稲美町史』(p986)に、元文二年(1737)の北山村の明細帳があります。きょうは、この明細帳から江戸時代中期の北山村を想像してください。
(数字等はアラビアにしました)
北山村の明細帳(元文二年・1737)より
一 高521石7斗5升7合
此田畑43町5反9畝4歩
内田 23町9反1畝24歩
畑 19町6反7畝9歩半
一 家数 124軒
高10石(およそ7反)~27石(およそ1町9反) 9人
高9石(およそ6反4畝)以下 91人
高1石(およそ7畝)以下 水呑 25人
(一無家1人此働日雇かせぎ)
一 人数751人 男383人(内35人奉公に出居候)
女368人(内19人奉公に出居候)
外に38人他村より参り居候
一 牛数 42疋
近隣の村々より豊かであったが・・・
「豊かな村」といっても近隣の村と比べてのことです。
稲美台地の集落はどの村も水を求めて大変な努力がありました。
北山集落は「入が池」等の水があり近隣の村々と比べて安定した農業を営むことができたようです。
水田は約24町、畑が約20町と水田が畑よりも多くなっています。
それにしても、やはり生活は厳しかったようです。
約93%の人が高9石以下となっています。
そのためか、男女合わせて54人が奉公に出ています。どんな仕事を求めて、どこに奉公にでかけたのでしょう。調べてみたい。
上記の明細帳にある百姓の外に、医者2人、大工1人、そして鉢ひらき禅門(托鉢で生活している貧しい僧)2人あったと記しています。