江戸時代、文字で書かれた記録(古文書)が急に多くなりました。
これは紙の生産の増加、庶民の読み書き能力の高まり、それに何よりも政治の複雑化によるものです。
江戸時代に開発が急速に進んだ稲美町の各地区には、多くの古文書が残っています。
その内、きょうは国安・岡村の明細帳から「百姓弁高(ひゃくしょうわきまえだか)」を見ておきます。
土なし弁高(わきまえだか)
明細帳は村石高、家族数、人口、家畜の数、職業などのようすを役人に提出する書類です。
ですから、明細帳から当時の村のようすを知ることができます。
岡村・国安村に明細帳が残っています。
国安村(寛延3年・1750)の明細帳には17石2斗7升の「土無百姓弁高」というのが見えています。
同じく、岡村(宝暦14・1764)の明細帳では14石6斗2升の「無土百姓弁高」が記されています。
「無土百姓弁高」というのは、村に土地がないのに課された年貢のことです。
ただでさえ厳しい年貢である上に、「無土百姓弁高」として年貢がかかってきました。この不合理は村人にとって頭痛の種だったと思われます。
どうして、このような不都合なことがおこったのでしょうか。
多くの場合「往古よりわけ知レ不申候(おうこより、わけしれもうさずそうろう)としています。
が、明暦2年の検地で、村高が前より下回ったときなど、村高を減ずるわけにもいかず無高地にしたのかもしれません。
また、かつて耕地であったところが、何らかの理由で荒地となったにもかかわらず石高がそのままに据え置かれたとも考えられます。
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『稲美町史』では「いろいろな理由、例えば慶長の池田輝政の2割打ち出し検地を緩めるに当たって、でてきた誤差を無高地としたのではないだろうかということも考えられる」と説明しています。
*写真:「寛延三年・国安村明細帳」、『稲美町史』より