北山村の歴史は古く町内でも、もっとも早く開発が始まったとされています。
それでも、明治初年にいたっても山林など未開拓地が、かなり残っていたようです。
明治初年以来、それらの開発のための大きな溜池の築造が話題にのぼってきました。
これは、地租改正による重い税負担に迫られたことも一因であったと思われます。
明治16年8月、北山・中村の水利委員は話し合いを持ちました。
明治18年には、淡河疎水の起工式がありました。
北山村でも、明治19年7月12日、新池の築造を兵庫県に願い出ました。
さらに、明治21年、下流の村々と相談し、再度兵庫県知事に新池の築造を願い出ました。
満溜池築造へ
次の問題は、土地を確保することです。国有地の払い下げを国に申請しました。
この払い下げを申請した国有地は、長府池の西の谷状になった土地で、溜池を造るのには絶好の土地でした。
しかし、申請は済ませたもののなかなか許可は下りませんでした。
明治28年から29年にかけて、一時小休止の状態になってしましました。
が、明治30年から農商務省に陳情を繰り返し、明治32年2月18日、官有林の払い下げの許可を得ることができました。
この官有林の払い下げに奔走したのは北山村の井上得三郎でした。
明治32年3月、やっと着工の運びとなりました。
しかし、おり悪しく長雨が続き工事はなかなかはかどりません。竣工期限と決めた5月下旬にいたっても、ようやく半ばを終える状態でした。
それに6月を過ぎれば麦の収穫から田植えが始まり、村の人は工事を続けることができません。
しかたなく、6月9日を以っていったん工事を中断し、9月10日から工事の再着工ということになりました。
9月に工事は再開されたのですが、またまた秋の長雨で工事が大幅に遅れてしまいました。
やっと竣工したのは、明治33年3月7日でした。
この工事は一応の完成でした。その後も越水の破損などの問題がおきています。
なお、満溜池は、明治41年増築工事が行われ、現在の溜池となりました。
満溜池の越水の近くに、井上得三郎等当時の水利委員の功績をたたえた記念碑が建てられています。
*地図で満溜池の場所を確かめてください。