きょうは、気軽に「コーヒーブレイク」の話題としてお読みください。
北山の名前
伝承によれば、入が池は1300年の昔に造られたとされています。
そして、堤の一部は「六曲屏風」と言って、屏風を半開きにした時のような形に造られました。
この堤の形は、一部分に水の圧量がかからないように工夫された土木技術によるものです。
当時、日本に、そんな技術はまだありません。
あるとすると渡来技術集団によるものです。
『印南野文化(5)』に、次の面白い記事があります。
「・・・柳沢忠氏の『印南野開拓史』にも、これらの池の築造は渡来人の技術指導によるところが多いと述べられ、『加古川市史』にも、この地方の開発は新羅系の渡来人秦氏の力が大きかったと記しています。
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『稲美町史』にも、西日本の乾田農耕技術者として、これら朝鮮渡来の技術集団が多くの功績を残していると言います。
ここまでは、すんなり理解できます。
次の文章を皆さんはどのように考えられますか?
朴(ぼく)から北(ほく)、そして北(きた)へ?
「これら渡来系技術集団の中に、朴(ぼく)氏がいました。
北山集落は、その朴が住んだところという意味で「北」(ほく)集落となづけました。
そして、やがて朴氏は北(ほく)となのり、現在の北となったと言うのです。
北山は、朴氏が開いた集落の意味でしょうか。
入が池は、渡来系技術集団、朴技術集団が築いた池でしょうか。
先に、『稲美町町探訪(260)』で、常楽寺の縁起を紹介した時の「喜多太夫」も同系と考えられるというのですが?
*写真:夕暮れの入が池