ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(33):文観・後醍醐天皇

2013-11-15 10:17:00 |  ・加古川市加古川町大野

最近読んだ本は、『日本の中世に何が起きたか』(日本エディタースクール出版部)、『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫)、『異形の王権』(平凡社)いずれも網野善彦氏の著作です。
 それに、『歴史の主役たち(永井路子著)』(文芸春秋)も読みました。
   文観が気にかかる
 中世に関する本を読みだしたのは、加古川市の歴史散策をしていて、虫歯が急にうずき出したように「文観」のことが気になりだしたからです。
 ひょっとして、文観は加古川市出身ではないかと思えてきたのです。「常楽寺研究」で少し書いていて、その思いは強くなってきています。
 250pxemperor_godaigo文観は、日本史を動かした後醍醐天皇のブレーンです。
 この辺りで、常楽寺の次の話題へ進む前に文観・後醍醐天皇について少し纏めておきます。加古川市の歴史探索を少し離れます。ご了承ください。
   文観・後醍醐天皇
 永井路子さんは『歴史の主役たち』で次のような文章を書いておられます。
 「最近歴史ブーム」なのだそうだが、中で南北朝の一時期だけは、まったく人気がない。
 これは戦争中に日本人が、いやというほど叩きこまれた皇国史観の後遺症なのだろうが、私はいま、この時代に大いに興味を持ち始めている。
 単なる昔の歴史を懐かしむという意味ではなく、いや、むしろそれとは反対の意味でだが、むしろそこをはっきり見つめなくては、戦前戦後を含めた現代の日本の諸問題をみすえることはできないのではないか。という気さえしているのだ。・・・
    
時代を変えた南北朝時代
 永井路子さんが上記の文章を書かれたのは1990年で、最近は、少し事情は改善され南北朝時代の研究も進んでいます。
 当然です。南北朝時代は日本の古い社会が終わらせ、近世の扉をこじ開けた時代です。
 日本史でこの時代は、ものすごい意味のある変革の時代でした。
 その南北朝時代の中心に居たのが後醍醐天皇であり、そのブレーンの文観で、その文観が加古川市と関係をもっているとすれば、住民としては興味をもたざるを得ません。
 全国に発信せざるを得ません。
 後醍醐天皇・文観につて少し学習を進めることにします。
*挿絵:後醍醐天皇(清浄光寺蔵)

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(大野)常楽寺研究(32):常楽寺の盛衰(3)・もとは真言律宗の寺

2013-11-14 09:30:57 |  ・加古川市加古川町大野

『大野史誌』の、次のか所を読んでおきます。
  
元は天台宗の寺

Photo・・・元は天台宗であったが、真言宗に転派している。
 寺伝では、西大寺の末寺であったとの伝承はない。
 しかし、境内には、五輪塔・宝塔・宝筺印塔(ほうきょういんとう)・十三重塔などがあるが、これらはすべて鎌倉時代末期から室町時代末期にかけでのもので、五輪塔は、様式からみて、西大寺系であろうと想像される。
 本山は、高野山金剛峯寺、所縁坊は、高野山の、宝城院である。・・・
   常楽寺は西大寺の末寺
 「寺伝では、西大寺の末寺であったとの伝承はない」と書いていますが、先に『信仰の美術』(加古川文化センター)の記述をお借りしました。
 「・・・・現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷として栄えており、その中心寺院であるこの北条常楽寺は、叡尊(えいぞん、120190)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところである。
 明徳二年(1391)本をはじめ『西大寺末寺帳』には、播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知れる。・・・・」
 常楽寺の伝承には記載がないのですが、「西大寺の末寺帳」には常楽寺が播磨国の筆頭に記載されているのです。
 と、いうことは、常楽寺は西大寺の系列の寺、つまり真言律宗の寺であると断定してよいと思われます。
 また、寺伝では、「元は天台宗であったが、真言宗に転派している」また、「
常楽寺は正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、その後、小野文勧(文観)僧正(12781357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された」とあります。
 先に、この常楽寺の再建を、正和四年(1315)ごろではないか、と想像してみました。
 再建には、文観そして西大寺の支援があったと想像されます。
 この再建にともない、その時期に天台宗から西大寺系の真言()宗に転派したと想像するのです。

史料の裏付けによって話ではありません。
飛躍があるかもしれませんがご一考ください。
*写真:宝塔(正和四年・1315年の銘を持つ)

    この塔は、真言律宗系の石工により造られている。

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(大野)常楽寺研究(31):常楽寺の盛衰(2)・大洪水、火災

2013-11-13 08:31:36 |  ・加古川市加古川町大野

この号から少し史料の裏付けのない話が続きます。常楽寺さんに、ご迷惑をかけすることになるかもしれません。勝手な想像です。文責は私です。
 前号の復習をしておきます。
   常楽寺の盛衰
Photo (常楽寺は)正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、一字だけ残る。
 その後、小野文勧(文観)僧正(12781357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された。
 末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、寺領は三百石であったという。(『大野史誌』より)
    大野は洪水に見舞われやすい所
 鎌倉時代を想定します。
 加古川にしっかりとした堤防を造るということは経済的にも、技術の面からいっても正嘉当時は、十分ではありません。
 そのため、大野辺りは、しばしば洪水に見舞われたと思われますが、大野は特に洪水の多い場所に位置していました。
 というのは、「(大野の北側を流れる)曇川は、曇ったときだけ水がある」といわれるのですが、いったん大雨の時は、曇川の大量の水は加古川に流れてくれません。
 水は、堤防の外(東側)を大野に向けて一気に押し寄せます。大野はしばしば洪水に見舞われました。
 それにしても、正嘉二年の暴風雨の時は、特に大規模な加古川本流が引き起こした大洪水であったようです。
 常楽寺は、一宇を残して流されたと伝えています。
   常楽寺の再興
 この後、繁栄を誇っていた常楽寺の再建は、さすがに進まなかったようです。
『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と記しています。
 常楽寺には、西大寺系の石工が造った宝塔があります。「文観慈母塔」の伝承を伝えていますが、銘には願主・道智とあり、文観の慈母塔ではないようです。
 が、この頃、西大寺の僧・文観の援助で、この寺を再建したのではないかと想像したいのです。
 再建は、それもこの塔の造立された正和四年(1315)ごろではないか、と想像してみます。当時、文観は37才でした。
 まだ、後醍醐天皇との関係は薄いのですが、すでに、西大寺の実力者として活躍しています。
 伝承では「常楽寺は、文観により復興された」としていますが、文観にとって経済的な援助等では無理は無かったと思えます。
 常楽寺は、文観にとっても特別の思い詰まった寺だったのでしょう。
 *写真:西大寺

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(大野)常楽寺研究(30):常楽寺の盛衰(1)

2013-11-12 07:34:14 |  ・加古川市加古川町大野

      常楽寺の草創は平安時代(12世紀)・・・
010 常楽寺に残る「聖観音立像(秘仏)」は、形式などから平安時代(12世紀)の作であることは間違いありません。 
 もちろん、仏像は、建築物と異なり運ぶことができるので、この仏像があることをもって、常楽寺の歴史は平安時代までさかのぼることができるとは断言できませんが、この観音様は常楽寺の草創期から安置されてきたと判断してもよいのではないでしょうか。
 つまり、常楽寺は平安時代にさかのぼることのできる寺院のようです。
でも、歴史の中で暴風雨や、兵火にあい、苦難の歴史を経ています。
 その歴史を『大野史誌』から見ておきます。
    
常楽寺の盛衰

(常楽寺は)正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、一字だけ残る。
 その後、小野文勧(文観)僧正(12781357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された。
 末寺18ヵ寺、僧坊は56宇、寺領は三百石であったという。
 永禄年間(15581570)、三本城主・別所長治の祈願所となって繁栄していた。
 しかし、天正六年(1578)、羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した。
延宝二年(1674)徳川家綱のころ、一字を創立する。
 寺領五石である。
 その後、多聞院・吉祥坊・安養坊・南の坊の四ヵ寺であったが明治三年(1870)三ヵ寺を廃止して、南の坊をのこし、常楽寺と名づけた。(以上『大野史誌』より)
     暴風雨もありました・兵火にも会いました
 常楽寺は、「末寺18ヵ寺・僧坊56宇、寺領三百石」あったといいます。
 『西大寺末寺帳』には、播磨国の筆頭に記されており、ずいぶん寺格の高い、大きな寺院であったようです。
 しかし、正嘉二年には暴風雨で堂宇は破壊され、その後、寺は衰えたようです。
 その後再建されましたが、天正六年(1578)年、秀吉の野口城を攻めの時、秀吉軍の一部は常楽寺にも攻め寄せ、常楽寺は炎上し、寺宝はことごとく焼かれ、常楽寺は再び衰えました。
 常楽寺の歴史を想像を交えながら続けます。
 *写真:現在の常楽寺

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(大野)常楽寺研究(29):木造古仏立像

2013-11-11 08:10:20 |  ・加古川市加古川町大野

 像を実際に見ていないのですが、『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)の木造古仏立像(写真)を紹介している。
 説明は、「常楽寺研究」と重複するヵ所もあるが、紹介しておきます。
    
木造古仏立像
    一木造 彫眼 像高54.0センチ
    年代不詳 
 7abb6614_2 常楽寺の本堂堂奥に安置されている仏像のひとつ。
 火災に遭ったためであろうか、すでに全身が大きく損われており、像容は詳らかでない。
 恐らく常楽寺または村内の堂から移されたものであろう。
 『播磨鑑』に載る寺記によると、常楽寺は大化元年(645)に法道仙人によって草創され、正嘉二年(1254)に洪水により堂宇が流され、その後、文観(12781357)が再興したとされている。
 さらに、天正六年(1578)に秀吉に焼かれ、延宝二年(1674)に現在の地に本堂を建立したとしている。
 現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷として栄えており、その中心寺院であるこの北条常楽寺は、叡尊(えいぞん、120190)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところである。
 明徳二年(1391)本をはじめ『西大寺末寺帳』には。播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知れる。
 また、『宝鏡秒』でも、後醍醐天皇の信任が厚かった律僧・文観(もんかん)は、播磨北条寺の出であると記しているが、北条常楽寺のことであろう。
 ・・・・中略・・・・
 常楽寺には、石造品を除き、中世の資料がほとんど伝わっていないとされていたが、堂内にある仏像は、桃山時代以前の同寺の歴史を考える上で注目すべきあろう。
 上記の「叡尊(えいぞん、120190)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところである。
 明徳二年(1391)本をはじめ『西大寺末寺帳』には。播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知れる」に注目したい。
 中でも西大寺末寺帳には播磨の国筆頭に記載されていることは、真言密教の寺と断言してもよいと思います。
 *写真:木造古仏立像

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(大野)常楽寺研究(28):木造観音像(2)・台座銘

2013-11-10 09:05:45 |  ・加古川市加古川町大野

     日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)
39c96346 前号で紹介した『信仰の美術・播磨の聖たち』の常楽寺の観音像の説明の続きを読んでおきます。
写真をご覧ください。
・・・・注目すべきは、台座下部背面に「日向宮本地仏」の銘が向って右から左に横書で陰刻されていることである。
台座の制作は、その形式と本堂の他の仏像等の修理から17世紀後半と考えられるが、その頃には、この像が、日向宮(日岡神社)の本地仏とされていたことになる。
室町時代後期から江戸時代初期にかけて、常楽寺の寺勢は衰えていたため、この関係をどの程度遡って考えるかは問題であるが、加古川市内唯一の式内社である日岡神社と、中世播磨で隆盛を誇った常楽寺との、神仏習合のようすを窺わせる貴重な資料といえる。・・・・
ここで、「本地仏・日向宮・式内社」の言葉を整理しておきます。
    
本地仏(ほんじぶつ)
「本地(ほんじ)」というのは本来の姿という意味ですから、本地仏(ほんじぶつ)とは、本来の姿である仏様、という意味になります。
しかし、これだけでは何のことか分かりません。分かるためには、本地垂迹(ほんじすいじゃく)ということについて知る必要があります。
本地垂迹というのは、本来の姿は仏教の仏、その仮の姿が神道の神、というほどの意味です。つまり、本地仏というのは、神道の神様と仏教の仏様は同体だ、という理論においての、神様の本来の姿であるところの仏様、ということです。
このような、神仏のあり方を「神仏習合」と言います。
   日向宮(ひゅうがのみや)
「日向宮(ひゅうがのみや)」は、日岡山にある「日岡神社」のことです。
以下、日岡神社として話を進めます。日岡神社は式内社(しきないしゃ)です。
式内社というのは、10世紀のはじめに作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことです。
中央政府は、地方の豪族と結びつきを強め、勢力をさらに強めるため、全国の有力な神社をその統制下におき、「式内社」として権威づけたのです。
加古川市近辺(加古川市・高砂市・播磨町・稲美町)で「式内社」は、日岡神社だけです。
多くの神社がそうであるように、式内社に選ばれた理由は分かりません。きっと、日岡神社は、当時このあたりで大きな勢力をもっていたため式内社に選ばれたのでしょう。
日向宮本地仏とは、「日岡神社の神様たちのもともとのお姿は、常楽寺の仏様たちなんです」という意味です。
つまり、聖観音の台座の銘は、神仏習合を知る貴重な資料です。
明治になり、神仏分離令が出され、お互いに独立した神社、寺として今日に至っています。
日岡神社は、明治3(1870)、その名称も「日向宮」から現在の「日岡神社」と変わりました。
*写真:聖観音菩薩立像台座銘

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(大野)常楽寺研究(27):木造聖観音像(1)

2013-11-09 08:36:05 |  ・加古川市加古川町大野

Cd33b13a_2「常楽寺研究(4)」で、常楽寺を次のように紹介しました。
・・・・常楽寺について『大野史誌』は「天正六年(1578)羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した」とだけ記述しています。
常楽寺のことを調べたいのですが、残念なことに記録・寺宝等は焼かれ、現在ほとんど残されていません。・・・
私もそう思い込んでいたのですが、常楽寺には立派な聖観音立像等がわずかに残されていました。
秀吉軍により、焼き打ちになることが予想されたのでしょう。この観音菩薩像はどこか別の場所に隠していたのかもしれません。
この観音様」について、『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)からの説明をお借りします。
 
  木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)
常楽寺本堂の奥に安置される聖観音菩薩立像である。穏やかな相貌を持つ、やや大きめの頭部と、奥行のある体部の肉取りさらに、腰をやや左に捻り、微妙に左足を踏出すなど、一見して、平安時代後期の観音菩薩立像であることがわかる。
表面は剥落し、全身古色を呈している。内割りは無く、体幹を桧の一材で彫成し
ている。
宝髻(もとどり)は大きく、天冠台の彫りも鋭い。
彫服で、鼻先がやや磨滅するが、面部は全体に損なわれていない。
左手は屈臂して腹前に握り、宝瓶を提げていたとみられる手先は後補と思われる。
屈臂(ひじ)した右手は胸前に第一指と第二指を捻じて掌を差出す。
肘からは別材を合せ、さらに手首より先は後補のものである。臂吊は両肘から外は欠損し、両足裏はそれぞれに柄の跡が見られるが、腐食のため別材を補い一材として台座に挿している。
宝冠と台座は後補であるが、本像は衣文線も鋭く、全体に製作当時の姿を留めている。
(以上『信仰の美術・東播磨の聖人たち』より)
*聖観音立像(常楽寺所蔵・秘仏)

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(大野)常楽寺研究(26):常楽寺の石造物(10):不動明王像

2013-11-08 07:51:15 |  ・加古川市加古川町大野

     動明王像

007 常楽寺の境内にある不動明王について『大野史雑』は『聖不動明王の祭り』として、次のようにわずかに説明している。 

・・・昭和十二年(1937)五月にお迎えして以来、毎月二十八日を命日として、お祭りをしている。(『大野史誌』より)

『仏像・羅漢(梅原猛著)』(集英社)、から不動明王の説明を付け加えておきます。

    動明王はどんな仏?

           『仏像・羅漢(梅原猛著)』(集英社)より

不動明王像からわれわれが受ける感じは、圧倒的な力の感じである。それは怒り狂う生の力の表現なのである。

カッと見開いた眼、唇をかみしめた口、むき出した歯、それはどう見ても恐ろしい像なのである。

そして、右手に持つのは剣、左手に持つのは索、その剣で敵を切り、その索で人を縛るのであろうとわれわれは思う。

像の中には、剣に恐ろしげな竜がまきついたものがある。

いずれにせよ、われわれはこの像から、巨大な力と恐ろしい敵意を感じる。

ことに不動のまわりを取りまいている火は、はげしい怒りの象徴であるかのように、炎々としてもえているのである。

・・・・・

われわれが不動の中に直観的に見るのは、一つの力であり、衝動である。

しかし、経典は、違った説明を不動に与えているのである。不動の怒りは、決して敵に向けられたものではなく、むしろ己の煩悩に向けられたものである。

不動のもっている剣で切るのは憎むべき敵では欲望であり、索でしばるのは他人ではなくして己の心なのであり、炎々と燃える火炎も、衝動の炎ではなく煩悩を焼きつくす炎なのである。

不動の怒りは、外より内に、他人よリ目己に向かっている。

それゆえ、不動の力は人に勝つためのものでなく、己に勝つためのものである。

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(大野)常楽寺研究(25):常楽寺の石造物(9)・松尾伝三郎彰徳碑

2013-11-07 08:04:06 |  ・加古川市加古川町大野

001 常楽寺の境内に、写真のような顕彰碑(写真)があります。
松尾伝三郎氏の彰徳碑です。
松尾伝三郎氏の経歴は『大野史誌』に紹介されていますのでお借りします。
 
 松尾伝三郎彰徳碑 
松尾伝三郎氏は、30年にわたり大野村総代として、また、日岡御陵陵守、さらに、五ケ井水利組合の井頭として郷土発展のため尽力された。
村民あげてその功をたたえ、大正八年(1919)六月、彰徳碑を建立した。
題字は日岡神社の日岡長正氏の揮耄である。
  <松尾伝三郎(武義)略歴>
 天保十年(1839)生れ。
 明治十六年(1883)陵掌丁となる。
 大正三年九月(1014)七十五歳、守長判任官四等。
 大正八年(1919)八十歳 勲八等瑞宝章賜わる。

なお、日岡御陵守をされました。
日岡御陵について、付け加えておきます
    
日岡御陵

日岡御陵は、12代天皇・景行天皇の妻であり、ヤマト・タケルのお母さんのお墓です。
もちろん、伝承です。
それでは、『播磨風土記』には、どのように描かれているのでしょうか。
ヤマト・タケルのお母さんさんの名前は、古事記では印南別嬢(わきいらつめ)、日本書紀では稲日大郎姫として登場しますが同一人物です。
・・・
奈良の都から一人の役人に派遣されてきました。
この役人は土地の女性と結ばれ、女の子をもうけました。
名を印南別嬢(いなびのわきいらつめ)と言い、他に比べる者もいない、美しい女性に成長しました。
噂は、天皇(景行天皇)にも聞こえ、別嬢を妻に迎えるために、天皇はこの地にやって来ることになりました。
別嬢は、天皇の妻問い(つまどい)を知って、息がつまりそうな胸苦しさを覚え、どうしてよいのか分からないままに「ナビツマの島」に隠れました。

加古の松原についた帝(みかど)は、別嬢を探します。
土地の者は誰も答えようとしません。
その時でした。島に向かって白い犬が寂しそうに、鳴いていました。
天皇は尋ねました。
土地の人は、答えないわけにいかず、「あれは別嬢の犬です・・・」と答えました。
島に渡り、別嬢と会うことができ、幸せな生活をおくりました。
・・・
やがて、別嬢は亡くなります。別嬢は日岡山に葬られることになりました。
ところが、なんとしたことか、遺骸が加古川を渡る時、突如としてつむじ風がおこり、たちまちのうちに川にのみ込まれてしまったのです。
後には、櫛(くし)と「ひれ」(天女が背からかけている布)が見つかっただけでした。そのために、その櫛と「ひれ」が御陵に葬られました。
そのため、日岡御陵は「ひれ墓」とも呼ばれています。
こんな物語が『播磨風土記』で語られています。
*写真:松尾伝三郎彰徳碑

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(大野)常楽寺研究(24):常楽寺の石造物(8)・吉田喜代松氏銅像台座

2013-11-06 10:24:00 |  ・加古川市加古川町大野

きょう紹介する石造物は、氷丘村(村長在職期間、明治294月~明治383)二代目村長・吉田喜代松氏銅像台座です。

もちろん、これは台座ですので主役はその上の銅像ですが、石造物として紹介させていただきます。

 吉田喜代松(氷丘村二代目村長)銅像台座

002・・・明治224月1日、中津村・河原村・溝ノ口村・美乃利村・平野村が合併して「ヒオカ村」が誕生しました。

この時、「日岡山」にちなみ村の名前も決められたのでしょうが、なぜか「氷丘」の文字を採用しました。

当時の記録は残っていないため、理由は分かりません。

氷丘村役場には、残念なことに、記録類が全く残っていません。

村名が決められた経過だけでなく、その他の詳細もわかりません。

当時の村役場の写真は、『大野史誌』(大野町内会発行)に掲載されています。

大野村が、昭和12年(1937)、加古川町と合併するまでに7人が村長を勤めた。

二代村長の吉田喜代松は、明治29年から38年の間、村長をつとめ、その後県会議員に転進しました。

大野村は、彼の功績をたたえ、大正63月に銅像を常楽寺に建立しました。

しかし、昭和18年(1943)、太平洋戦争の戦事用金属として彼の像は供出され、銅像跡(写真)だけが常樂寺の境内に残っています。

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(大野)常楽寺研究(23):常楽寺の石造物(7)・宝塔

2013-11-05 00:01:58 |  ・加古川市加古川町大野

Mukasinofuukei_024この宝塔について、加古川市教育委員会の説明板がありますので読んでおきます。
   
宝 塔
  この宝塔は、銘文により文化元年(1804)に造立されたことが分かります。
   凝灰岩(竜山石)
   全高 186.5センチ   
          平成三年三月三日 加古川市教育委員会
   宝塔について
宝塔と言えば、ふつう基礎・塔身・笠・相輪からなり、塔身が円筒形の軸部と首部からなる塔のことです。
宝塔は、基本的に経塚の墓標として用いられてきました。
しかし、その後、念仏供養などに用いられるようになりました。
常楽寺の宝塔は、経塚の標識ではなく、供養塔です。
この宝塔には、文字が多く刻まれています。
まだ読めていません。
読んで、設立の目的等を考えてみます。
後日、詳細を報告します。
きょうは、境内に文化元年(1804)造立の宝塔があるということにとどめておきます。
*写真:常楽寺境内の宝塔

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(大野)常楽寺研究(22):常楽寺の石造物(6)・石棺

2013-11-04 08:04:20 |  ・加古川市加古川町大野

     石棺(古墳時代後期:67世紀)
Mukasinofuukei_025常楽寺の境内の宝塔とうの前に石棺があります。
説明板に、その説明があるので、読んでおきます。
   <石棺>
  この石棺は「くりぬき石棺」の身です。
  凝灰岩(竜山石)
    縦          146センチ
    横            75センチ
    高さ           54センチ
    くり抜き部の深さ 38センチ
説明は以上で、詳細は分からないようです。
日岡山周辺にはたくさんの古墳がありましたが、壊されて現在は、ほとんど姿を消してしまいました。
   
氷丘中学校設置の石棺と同時代のものか
同時代の古墳から見つかった石棺が氷丘中学校の正門近くに設置されているので、みておきます。
氷丘中学校(加古川市加古川町大野)の正門を入ると、向かって右に石棺は、昭和59年に、ここに設置されたものです。
神戸新聞は、この石棺を次のように報道しました。名前等、一部記事を変え転載します。
・・・石棺は、ふたが失われているものの、長さが160センチ、幅53センチ、奥行き74センチの凝灰岩(竜山石)のくりぬき石棺で、重さ3トンのりっぱなもの。
古墳時代後期(6~7世紀)に造られたとみられ、数年前に地元の郷土史家が古墳の宝庫・日岡丘陵の南麓で発見した。
これを、I氏が見学したが、祖先の貴重な石造文化財がゴミや草に埋もれたまま放置されている姿を見て、何とか保存できる方法はないものかと、校長に相談。
市教委文化課を通して、(土地の)持ち主のUさんに話を持ちかけた。Uさんは「教材に役立つのなら」と快く寄贈を申し出て同中での保存が実現した・・・(以下略)
私事で申し訳ありませんが、記事中のI氏とは、私のことです。
 *写真:常楽寺境内の石棺

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(大野)常楽寺研究(21):常楽寺の石造物(5)・太鼓橋

2013-11-03 07:50:18 |  ・加古川市加古川町大野

太鼓橋
Mukasinofuukei_019『大野史誌』は、太鼓橋の説明を次のように書いています。
・・・・この橋は常楽寺を流れる新井用水路に架かっていたが、日岡山公園道路の新設に伴って不要となり、本堂東の霊場竹生島に移設し保存されている。・・・
     
新井用水
太鼓橋の説明は以上ですが、ここで用水路について紹介しておきます。
新井用水は、加古川大堰のところから常楽寺の山門前を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水です。
承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。
現在の播磨町・平岡町・野口町の溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。
それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。
野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがありませんでした。
五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐありさまでした。
古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引きたいと考えました。
しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。
そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川(加古川大堰の左岸)から水を取る事を計画たてました。
しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口と重なり、五か井郷の村々は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。
藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。藩主の命令は絶対です。
難問は、解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の3月に完成しました。
新井用水の完成とともに橋は架けられたと思えるが、この橋には享和二(1802)の銘があるので、江戸時代に終りの頃に改築されたようです。
*写真:常楽寺境内の太鼓橋

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(大野)常楽寺研究(20):常楽寺の石造物(4)・板碑

2013-11-01 06:25:48 |  ・加古川市加古川町大野

『大野史誌』は、新井用水沿いの墓地の宝塔・五輪塔に詳しく説明しています。

また、本堂東の宝塔も写真で紹介でしています。
が、常楽寺境内の宝塔の横の板碑(いたび・写真)についての説明はありません。
この板碑についての詳細は分かりません。
一般的な説明をしておきます。
板碑について、説明をHP(ホームページ)からお借りしています。
    板 碑(いたび)
018板碑は、中世仏教(鎌倉~室町時代)で使われた供養塔です。
基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものです。
頭部に二条線が刻まれています。実際には省略される部位分もあります。
板碑は、鎌倉時代~室町時代に集中してつくられました。
戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもあります。
現代の卒塔婆につながっています。
    常楽寺境内の板碑
常楽寺境内の板碑は、梵字(種字)ではなく、地蔵菩薩が彫られています。
板碑の横に少し説明がありますので、一部をお借りします。
常楽寺の板石(板碑の石材)は、古墳後期(6世紀)に使用されていた組合せ石棺材です。
この付近の日岡山古墳群のから出土したものと思われます。
室町時代後期に造られたものと思われます。

*写真:常楽寺境内の板碑

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(大野)常楽寺研究(19):常楽寺の石造物(3)・八十八ヶ所霊場仏

2013-10-31 07:02:57 |  ・加古川市加古川町大野

四国八十八ヶ所霊場めぐり
昔は、四国八十八ヶ所霊場めぐりは、全部歩いての巡礼でした。
同行二人(お大師さんと一緒)と書いた笠に杖、白装束の姿になって四国八十八ヶ寺をめぐりました。
    
常楽寺八十八ヶ所霊場仏
011常楽寺(真言宗)の寺域にも八十八ヶ寺を模した88の祠(写真)があります。
それをめぐる小道もあります。
常楽寺境内のこれらの八十八ヶ寺の祠をめぐると、四国八十八ヵ寺を巡るのと同じ功徳があるとされ、近隣の人々は、お大師さんの命日である21日になるとお米一握り、お金を88個持って、お参りに出かけました。
一つの寺の地域はいえ、坂をあがったり下がったりして、お年寄りにはたいへんきつい「八十八ヶ所霊場めぐり」であったのかもしれません。
昔の人は、お大師さんに対する信仰心がずいぶん厚かったためでしょう。
毎月二十一日には沢山のお賽銭があがったといいます。
常楽寺にある八十八の祠は、明治22年(18947月、弘法大師、1.100年を記念して造られたものです。

今から120年ばかり昔のことです。
その後、昭和9年、平成元年にも補修され現代にいたっています。
祠の屋根はすべて丸みを帯びたそりがあり、美しい形で石仏は一体一体が異なったお姿です。
四国八十八ヶ寺のそれぞれのお寺のご本尊のそばに、その隣には、お大師さんが全部の祠に座っていらっしゃいます。
石仏の下の台には文字が刻まれています。 寄進者の名です。
どんな思いでの寄進だったのでしょう。
病気の回復を願ったのでしょうか。
それとも、親よりも先に亡くなった子どものためだったのでしょうか。
・・・・
*『大野史誌』(『大野史誌』編集委員会)参照

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