ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(32):常楽寺の盛衰(3)・もとは真言律宗の寺

2013-11-14 09:30:57 |  ・加古川市加古川町大野

『大野史誌』の、次のか所を読んでおきます。
  
元は天台宗の寺

Photo・・・元は天台宗であったが、真言宗に転派している。
 寺伝では、西大寺の末寺であったとの伝承はない。
 しかし、境内には、五輪塔・宝塔・宝筺印塔(ほうきょういんとう)・十三重塔などがあるが、これらはすべて鎌倉時代末期から室町時代末期にかけでのもので、五輪塔は、様式からみて、西大寺系であろうと想像される。
 本山は、高野山金剛峯寺、所縁坊は、高野山の、宝城院である。・・・
   常楽寺は西大寺の末寺
 「寺伝では、西大寺の末寺であったとの伝承はない」と書いていますが、先に『信仰の美術』(加古川文化センター)の記述をお借りしました。
 「・・・・現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷として栄えており、その中心寺院であるこの北条常楽寺は、叡尊(えいぞん、120190)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところである。
 明徳二年(1391)本をはじめ『西大寺末寺帳』には、播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知れる。・・・・」
 常楽寺の伝承には記載がないのですが、「西大寺の末寺帳」には常楽寺が播磨国の筆頭に記載されているのです。
 と、いうことは、常楽寺は西大寺の系列の寺、つまり真言律宗の寺であると断定してよいと思われます。
 また、寺伝では、「元は天台宗であったが、真言宗に転派している」また、「
常楽寺は正嘉二年(しょうか・1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため堂宇は破壊され、その後、小野文勧(文観)僧正(12781357)によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された」とあります。
 先に、この常楽寺の再建を、正和四年(1315)ごろではないか、と想像してみました。
 再建には、文観そして西大寺の支援があったと想像されます。
 この再建にともない、その時期に天台宗から西大寺系の真言()宗に転派したと想像するのです。

史料の裏付けによって話ではありません。
飛躍があるかもしれませんがご一考ください。
*写真:宝塔(正和四年・1315年の銘を持つ)

    この塔は、真言律宗系の石工により造られている。

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