ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(24):常楽寺の石造物(8)・吉田喜代松氏銅像台座

2013-11-06 10:24:00 |  ・加古川市加古川町大野

きょう紹介する石造物は、氷丘村(村長在職期間、明治294月~明治383)二代目村長・吉田喜代松氏銅像台座です。

もちろん、これは台座ですので主役はその上の銅像ですが、石造物として紹介させていただきます。

 吉田喜代松(氷丘村二代目村長)銅像台座

002・・・明治224月1日、中津村・河原村・溝ノ口村・美乃利村・平野村が合併して「ヒオカ村」が誕生しました。

この時、「日岡山」にちなみ村の名前も決められたのでしょうが、なぜか「氷丘」の文字を採用しました。

当時の記録は残っていないため、理由は分かりません。

氷丘村役場には、残念なことに、記録類が全く残っていません。

村名が決められた経過だけでなく、その他の詳細もわかりません。

当時の村役場の写真は、『大野史誌』(大野町内会発行)に掲載されています。

大野村が、昭和12年(1937)、加古川町と合併するまでに7人が村長を勤めた。

二代村長の吉田喜代松は、明治29年から38年の間、村長をつとめ、その後県会議員に転進しました。

大野村は、彼の功績をたたえ、大正63月に銅像を常楽寺に建立しました。

しかし、昭和18年(1943)、太平洋戦争の戦事用金属として彼の像は供出され、銅像跡(写真)だけが常樂寺の境内に残っています。

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