ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(28):木造観音像(2)・台座銘

2013-11-10 09:05:45 |  ・加古川市加古川町大野

     日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)
39c96346 前号で紹介した『信仰の美術・播磨の聖たち』の常楽寺の観音像の説明の続きを読んでおきます。
写真をご覧ください。
・・・・注目すべきは、台座下部背面に「日向宮本地仏」の銘が向って右から左に横書で陰刻されていることである。
台座の制作は、その形式と本堂の他の仏像等の修理から17世紀後半と考えられるが、その頃には、この像が、日向宮(日岡神社)の本地仏とされていたことになる。
室町時代後期から江戸時代初期にかけて、常楽寺の寺勢は衰えていたため、この関係をどの程度遡って考えるかは問題であるが、加古川市内唯一の式内社である日岡神社と、中世播磨で隆盛を誇った常楽寺との、神仏習合のようすを窺わせる貴重な資料といえる。・・・・
ここで、「本地仏・日向宮・式内社」の言葉を整理しておきます。
    
本地仏(ほんじぶつ)
「本地(ほんじ)」というのは本来の姿という意味ですから、本地仏(ほんじぶつ)とは、本来の姿である仏様、という意味になります。
しかし、これだけでは何のことか分かりません。分かるためには、本地垂迹(ほんじすいじゃく)ということについて知る必要があります。
本地垂迹というのは、本来の姿は仏教の仏、その仮の姿が神道の神、というほどの意味です。つまり、本地仏というのは、神道の神様と仏教の仏様は同体だ、という理論においての、神様の本来の姿であるところの仏様、ということです。
このような、神仏のあり方を「神仏習合」と言います。
   日向宮(ひゅうがのみや)
「日向宮(ひゅうがのみや)」は、日岡山にある「日岡神社」のことです。
以下、日岡神社として話を進めます。日岡神社は式内社(しきないしゃ)です。
式内社というのは、10世紀のはじめに作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことです。
中央政府は、地方の豪族と結びつきを強め、勢力をさらに強めるため、全国の有力な神社をその統制下におき、「式内社」として権威づけたのです。
加古川市近辺(加古川市・高砂市・播磨町・稲美町)で「式内社」は、日岡神社だけです。
多くの神社がそうであるように、式内社に選ばれた理由は分かりません。きっと、日岡神社は、当時このあたりで大きな勢力をもっていたため式内社に選ばれたのでしょう。
日向宮本地仏とは、「日岡神社の神様たちのもともとのお姿は、常楽寺の仏様たちなんです」という意味です。
つまり、聖観音の台座の銘は、神仏習合を知る貴重な資料です。
明治になり、神仏分離令が出され、お互いに独立した神社、寺として今日に至っています。
日岡神社は、明治3(1870)、その名称も「日向宮」から現在の「日岡神社」と変わりました。
*写真:聖観音菩薩立像台座銘

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (大野)常楽寺研究(27)... | トップ | (大野)常楽寺研究(29)... »

コメントを投稿