ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(21):常楽寺の石造物(5)・太鼓橋

2013-11-03 07:50:18 |  ・加古川市加古川町大野

太鼓橋
Mukasinofuukei_019『大野史誌』は、太鼓橋の説明を次のように書いています。
・・・・この橋は常楽寺を流れる新井用水路に架かっていたが、日岡山公園道路の新設に伴って不要となり、本堂東の霊場竹生島に移設し保存されている。・・・
     
新井用水
太鼓橋の説明は以上ですが、ここで用水路について紹介しておきます。
新井用水は、加古川大堰のところから常楽寺の山門前を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水です。
承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。
現在の播磨町・平岡町・野口町の溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。
それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。
野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがありませんでした。
五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐありさまでした。
古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引きたいと考えました。
しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。
そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川(加古川大堰の左岸)から水を取る事を計画たてました。
しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口と重なり、五か井郷の村々は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。
藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。藩主の命令は絶対です。
難問は、解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の3月に完成しました。
新井用水の完成とともに橋は架けられたと思えるが、この橋には享和二(1802)の銘があるので、江戸時代に終りの頃に改築されたようです。
*写真:常楽寺境内の太鼓橋

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