ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(25):常楽寺の石造物(9)・松尾伝三郎彰徳碑

2013-11-07 08:04:06 |  ・加古川市加古川町大野

001 常楽寺の境内に、写真のような顕彰碑(写真)があります。
松尾伝三郎氏の彰徳碑です。
松尾伝三郎氏の経歴は『大野史誌』に紹介されていますのでお借りします。
 
 松尾伝三郎彰徳碑 
松尾伝三郎氏は、30年にわたり大野村総代として、また、日岡御陵陵守、さらに、五ケ井水利組合の井頭として郷土発展のため尽力された。
村民あげてその功をたたえ、大正八年(1919)六月、彰徳碑を建立した。
題字は日岡神社の日岡長正氏の揮耄である。
  <松尾伝三郎(武義)略歴>
 天保十年(1839)生れ。
 明治十六年(1883)陵掌丁となる。
 大正三年九月(1014)七十五歳、守長判任官四等。
 大正八年(1919)八十歳 勲八等瑞宝章賜わる。

なお、日岡御陵守をされました。
日岡御陵について、付け加えておきます
    
日岡御陵

日岡御陵は、12代天皇・景行天皇の妻であり、ヤマト・タケルのお母さんのお墓です。
もちろん、伝承です。
それでは、『播磨風土記』には、どのように描かれているのでしょうか。
ヤマト・タケルのお母さんさんの名前は、古事記では印南別嬢(わきいらつめ)、日本書紀では稲日大郎姫として登場しますが同一人物です。
・・・
奈良の都から一人の役人に派遣されてきました。
この役人は土地の女性と結ばれ、女の子をもうけました。
名を印南別嬢(いなびのわきいらつめ)と言い、他に比べる者もいない、美しい女性に成長しました。
噂は、天皇(景行天皇)にも聞こえ、別嬢を妻に迎えるために、天皇はこの地にやって来ることになりました。
別嬢は、天皇の妻問い(つまどい)を知って、息がつまりそうな胸苦しさを覚え、どうしてよいのか分からないままに「ナビツマの島」に隠れました。

加古の松原についた帝(みかど)は、別嬢を探します。
土地の者は誰も答えようとしません。
その時でした。島に向かって白い犬が寂しそうに、鳴いていました。
天皇は尋ねました。
土地の人は、答えないわけにいかず、「あれは別嬢の犬です・・・」と答えました。
島に渡り、別嬢と会うことができ、幸せな生活をおくりました。
・・・
やがて、別嬢は亡くなります。別嬢は日岡山に葬られることになりました。
ところが、なんとしたことか、遺骸が加古川を渡る時、突如としてつむじ風がおこり、たちまちのうちに川にのみ込まれてしまったのです。
後には、櫛(くし)と「ひれ」(天女が背からかけている布)が見つかっただけでした。そのために、その櫛と「ひれ」が御陵に葬られました。
そのため、日岡御陵は「ひれ墓」とも呼ばれています。
こんな物語が『播磨風土記』で語られています。
*写真:松尾伝三郎彰徳碑

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