ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(27):木造聖観音像(1)

2013-11-09 08:36:05 |  ・加古川市加古川町大野

Cd33b13a_2「常楽寺研究(4)」で、常楽寺を次のように紹介しました。
・・・・常楽寺について『大野史誌』は「天正六年(1578)羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した」とだけ記述しています。
常楽寺のことを調べたいのですが、残念なことに記録・寺宝等は焼かれ、現在ほとんど残されていません。・・・
私もそう思い込んでいたのですが、常楽寺には立派な聖観音立像等がわずかに残されていました。
秀吉軍により、焼き打ちになることが予想されたのでしょう。この観音菩薩像はどこか別の場所に隠していたのかもしれません。
この観音様」について、『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)からの説明をお借りします。
 
  木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)
常楽寺本堂の奥に安置される聖観音菩薩立像である。穏やかな相貌を持つ、やや大きめの頭部と、奥行のある体部の肉取りさらに、腰をやや左に捻り、微妙に左足を踏出すなど、一見して、平安時代後期の観音菩薩立像であることがわかる。
表面は剥落し、全身古色を呈している。内割りは無く、体幹を桧の一材で彫成し
ている。
宝髻(もとどり)は大きく、天冠台の彫りも鋭い。
彫服で、鼻先がやや磨滅するが、面部は全体に損なわれていない。
左手は屈臂して腹前に握り、宝瓶を提げていたとみられる手先は後補と思われる。
屈臂(ひじ)した右手は胸前に第一指と第二指を捻じて掌を差出す。
肘からは別材を合せ、さらに手首より先は後補のものである。臂吊は両肘から外は欠損し、両足裏はそれぞれに柄の跡が見られるが、腐食のため別材を補い一材として台座に挿している。
宝冠と台座は後補であるが、本像は衣文線も鋭く、全体に製作当時の姿を留めている。
(以上『信仰の美術・東播磨の聖人たち』より)
*聖観音立像(常楽寺所蔵・秘仏)

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