ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

(大野)常楽寺研究(29):木造古仏立像

2013-11-11 08:10:20 |  ・加古川市加古川町大野

 像を実際に見ていないのですが、『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)の木造古仏立像(写真)を紹介している。
 説明は、「常楽寺研究」と重複するヵ所もあるが、紹介しておきます。
    
木造古仏立像
    一木造 彫眼 像高54.0センチ
    年代不詳 
 7abb6614_2 常楽寺の本堂堂奥に安置されている仏像のひとつ。
 火災に遭ったためであろうか、すでに全身が大きく損われており、像容は詳らかでない。
 恐らく常楽寺または村内の堂から移されたものであろう。
 『播磨鑑』に載る寺記によると、常楽寺は大化元年(645)に法道仙人によって草創され、正嘉二年(1254)に洪水により堂宇が流され、その後、文観(12781357)が再興したとされている。
 さらに、天正六年(1578)に秀吉に焼かれ、延宝二年(1674)に現在の地に本堂を建立したとしている。
 現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷として栄えており、その中心寺院であるこの北条常楽寺は、叡尊(えいぞん、120190)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところである。
 明徳二年(1391)本をはじめ『西大寺末寺帳』には。播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知れる。
 また、『宝鏡秒』でも、後醍醐天皇の信任が厚かった律僧・文観(もんかん)は、播磨北条寺の出であると記しているが、北条常楽寺のことであろう。
 ・・・・中略・・・・
 常楽寺には、石造品を除き、中世の資料がほとんど伝わっていないとされていたが、堂内にある仏像は、桃山時代以前の同寺の歴史を考える上で注目すべきあろう。
 上記の「叡尊(えいぞん、120190)にはじまる西大寺の真言律宗との関わりが最も注目されるところである。
 明徳二年(1391)本をはじめ『西大寺末寺帳』には。播磨国の筆頭に記載されており、中世を通じのその寺格の高さが知れる」に注目したい。
 中でも西大寺末寺帳には播磨の国筆頭に記載されていることは、真言密教の寺と断言してもよいと思います。
 *写真:木造古仏立像

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (大野)常楽寺研究(28)... | トップ | (大野)常楽寺研究(30)... »

コメントを投稿