ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

ひたすら走る

2006-02-09 09:44:40 | ドライブ関連
ただクルマで走りたい時がある。何も考えることなく。そういう時はもちろんどこかへ立ち寄ることもない。今回はそんな気分だった。

別に何かがあったというわけじゃない。ドライブにもいろんなパターンがあるということだ。夜景が見たくて走りに行くこともあれば、あの場所はどういうところなんだろうかと興味を持って走りに行くこともある。

でも、今回は違った。180kmという短い距離だったが、とにかく運転するだけのドライブにしたかったのである。

R246からR467で藤沢方面へ向かう。そして海沿いのR134を横浜方面に戻るというルート。特別マニアックなコースではない。走り慣れた道だ。

走ることに集中しているから、当然スピードも出る。すると不思議なことに「走り屋」らしい奴が現われるものだ。

別にワシはバトルするつもりはない。でも奴らはワシと勝負したいらしい。勝負というより、単にワシよりも速く走りたいのかもしれない。ならばワシを追い越せばいいのにと思うのだが、まるで金魚のフンのようにワシのケツについてくる。

とにかく走ることに集中したいのに、こうした鬱陶しい奴がいると気分が悪い。仕方がないのでアクセルを今まで以上に強く踏み込む。大きな声では言えないが、国道を走っているのに、もはやここは高速道路並みの速度となる。これで金魚のフンとの戯れ合いもおしまい。やれやれ。

ふと思った。ジェームス・ディーンもデニス・ブレインもクルマをかっ飛ばすことで知られていたが、彼らも運転するだけのドライブが好きだったのではないか、と。不幸にもそれで彼らは生命を落としてしまったのであるが…。もちろん、これはワシの憶測にすぎないんだけどね。
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ビザンツ聖歌はいかが?

2006-02-08 04:07:52 | CD/DVD
朝までに原稿を2つ入れなければならないのだが、ちっとも書く気にならない。こういう時にはまったく関係ないことをするのが一番。いつもならドライブというパターンなのだが、すでに午前3時を回っている。締め切りがなければ出掛けてしまうところだが、そうもいかない。そこで別の方法を考えてみることにした。

ふとCDライブラリーに目を向ける。すると1枚のCDが浮き上がって見えた。それがこの「ビザンツ聖歌」のアルバムである。ま、たまには聴いてみるか。気分転換になるかもしれない。

ビザンツ聖歌とは、いわゆる東方教会で演奏される音楽のこと。一般に我々の耳に馴染みのあるのはグレゴリオ聖歌だが、両者はいわば対極のものといってよい。グレゴリオ聖歌はその後カトリックの教会音楽に発展する。だから我々のイメージしている西洋の教会音楽がグレゴリオ聖歌なのはそういう経緯があったわけだ。

これに対して、ビザンツ聖歌は歴史の上では1453年にコンスタンティノポリスの滅亡とともに終結した「はず」だった。制度のうえでは存在しない音楽なのだが、実際のところはちゃんと東方教会で歌われている。ことわざに「人の口に戸は建てられない」というのがあるが、音楽にも似たようなことが言える。社会制度とは無関係に教会が存在する限り、この種の音楽は伝えられてゆく。こうしてビザンツ聖歌は今も聴くことができるのである。

ではビザンツ聖歌はどのような音楽なのか。一言で表現するなら、低音のドローンのうえにメリスマのきいた単旋律のソロで歌われる音楽である。メリスマの仕方がまさに東洋を思わせる。そのためこの音楽にインドのシタールが加わったとしても全く違和感は感じられないだろう。もちろんこれは教会音楽だからシタールとの「共演」などあるわけはないのだが。

それにしても、ここでソロを務めているシスター、マリー・ケイルーズ(Marie Keyrouz)の声は何とも色っぽい。ちょっとゾクゾクしてしまうほどだ。このアルバムではビザンツ教会で行われる一週間の儀式のための音楽が収められている。たとえば月曜日のアッレルーヤから始まり、復活祭の日曜日までという具合。毎日こんな声で歌われたら、さすがのキリストさんも復活したくなるわな…。いや、失敬、失敬。

さて、仕事、仕事。
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犬のように喜ぶ

2006-02-07 04:49:04 | ドライブ関連
昨夕から東京は雪。夕方までに原稿をひとつ仕上げたので、ワクワクしながら深夜を待つ。もちろん雪の中のドライブが待ち遠しいから。

できるだけクルマの通っていない道を探す。とりあえず府中に移転した東京外国語大学を目指す。サッカーに興味のある人なら味の素スタジアムのそばといえばわかりやすいか。

ほとんどクルマは通ってないのだが、それでも「わだち」は残っている。むぅぅぅ。次の写真は街灯の近くで撮影。すると、またイメージが違って見えるから面白い。

うーん、未踏の道はないのか?いろいろ考えた挙げ句、旧甲州街道を調布方面に向かう。そして、国領駅近くの脇道にそれを発見!やった!ついに雪が降ってからクルマの通っていないところを見つけた!それが三枚目の写真。街灯が白色なので雪の白さが際立つねえ。

それにしても東京のタクシー・ドライバーはダメである。たかが7~8cm積もった雪なのにビビリまくりで、主要道路以外は時速25~30キロのノロノロ運転。スリップが怖いのだろう。そりゃそうさ、履いてるタイヤはノーマルなんだもの。

でもねえ、アンタら、それで食ってるんだからさ、雪が降ろうが降るまいが冬場はスタッドレス・タイヤを履こうよ。どうせチェーンなんか巻かないんだろうし。せめて制限速度の40キロ前後で走ってよー。こちとら、わざわざ空いている時間を狙って走ってるんだからさ。せっかくの楽しい時間にストレスが溜まったら意味ないのぢゃ…と、ボヤいてみる。

当初の予定では都心の雪景色でも撮影しようかと思っていたが、とにかくビビリまくりのタクシーが多くて断念。あーあ、と思いながら家の近くまで来たら、意外に美しい場所があった。それが最後の写真。これで「わだち」がなけりゃ完璧なのにな。
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ナイス・ポイント

2006-02-06 05:00:39 | ドライブ関連
やらなければならない原稿があるというのにドライブへ出掛ける。我ながらホントに呆れる。やはりビョーキだ。

寒くて晴れているので、きっとどこかに素晴らしいビュー・ポイントの見られるところがあるはず。そんなことを考えつつクルマを飛ばす。向かったのは山中湖方面。大月からだとR139を使えば山中湖まで一本道なのだが、それでは面白くない。そこで脇道をウネウネと走る。

で、辿り着いたのは忍野温泉。言うまでもないが、忍野は「おしの」と読む。おっと、暗がりが多い場所だな。よしよし、これなら夜空がよく見えそうだぞ。

そんなことを考えながら走っていると、山中湖へ向かう途中でムチャクチャ素晴らしいポイントを発見!写真でお見せできないのが本当に残念であるが、そこは街灯はないし、広角で夜空を見ることができる。もちろん今夜は満天の星だ!おまけに、暗闇の中にクッキリと浮かび上がった富士山の輪郭!あぁ、感動。

興奮冷めやらぬうちに山中湖へ到着する。と、その時、あることを思い出した。そうだ、山腹に見えていた灯りがあったな。あれは何だろう。気になればその方向へ行くしかない。

あった。どうやらその灯りはホテルマウント富士のものらしい。湖の周囲を走る道路にその入り口があり、早速登ってゆく。

勾配のある通路は写真に示したように夜中でもこんなに明るい。こんな感じの細道がしばらく続くのだ。どうやらこの通路はホテルの私道のよう。ということは、ワシは不法侵入にあたるのか?まあ、いいや。さらに上っていこう。

しばらく行くと、途中に妙な建物を発見。不思議な門構えだ。その脇には「Tatuo museum」なる表札がある。なんだろう、これは。ミュージアムというのだから博物館か美術館なのだろう。しかし、門扉はサビついている。昼間に営業しているふうでもない。さらにその近くには矢印の形をした意味不明の物体が…。怪しい、実に怪しい!

クネクネとした細い通路を上っていくと、ようやくホテルに辿り着く。クルマを降りて周囲を眺めてみた。おそらく昼間であれば、きっとナイス・ビューなんだろうな。

今回はいくつかのポイントを発見することができて満足だった。たまには、こういう「当たり」もある。まるでギャンブルだな。そうか、だから深夜のドライブはやめられないのか…。妙に納得。
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思いのほかネット中毒

2006-02-05 04:23:09 | 脳みその日常
前回も書いたが、これまではネットに接続し放題だった。ところがワシの勘違いから、光ケーブルを導入するまで、しばらくはダイヤルアップ接続に甘んじなければならなくなっている。その間はネットをつなぐにもメールを送受信するにも課金されるわけだ。これが思った以上にカネがかかっていることに今さら気づく。

怪しいスパム・メールやコマーシャル・メールを含めると、日に80~100通ほど届く。これらを確認するだけでも時間がかかる。それには最初困った。しかし考えてみれば確認するだけならケータイで見ることができることに気づく。よしよし、これで無用な時間をかけずに済む。ただし、送信しなければならないメールについてはパソコンから送らねばならないケースもあるので、これは涙を飲むしかない。

そうした工夫をしても、ネットに接続している時間は1回あたり2時間は当たり前。朝晩に接続するとしても、1日4時間も「通話」していることになる。切り詰めても最低それぐらいはネットとラブラブ状態なのだ。ということは、今まではもっとネットに時間を割いていたということ。お、おそろしい…。

こんな調子ではストレスが溜まり放題。ただでさえ送信速度が遅くてイライラするのに、これはイカン!非常にイカン!ストレスを溜めないことを最優先にしているワシとしては、明らかにポリシーに反する行為である。となると、ストレスをどこかで発散させる必要がある。

気づけばドライブに出ていた(苦笑)あてもなく、ついつい200kmほど走ってしまった。むぅ…何だか今月はやたらとカネがかかりそうだ。その割に働いていないのに。

ひぃぃぃぃ。
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現代音楽演奏の美学とは?

2006-02-02 06:13:01 | 音楽あれこれ
最初に断っておくが、ワシは現代音楽アレルギーではない。むしろ好きなほうだ。しかし、このところ現代音楽を聴いてよく思うのは、演奏者はどのような考え方をもって演奏に臨んでいるのだろうかということである。

作品に対してさまざまな解釈があるのは何も不思議なことではないし、決して間違いであるということもない。記されてある音を即物的に表現するのもひとつの解釈だろうし、情熱的に表現するのでも構わない。その解釈に妥当な理由があればの話であるが。

ただ漠然と聴いていて思うのは、音に愛情が込められてないなということ。言葉で表現するのは難しいが、鳴らされる音には必ずベストな響きというのが存在する。どれをベストな響きとするかは演奏者の裁量に委ねられている。だからそれを聴いている我々があーだこーだと注文をつけるのは筋違いなのかもしれない。もし聴いている側で、こういう響きのほうがいいのにと思っても、それは演奏者が良いと思った響きなのだろうから、聴いているほうはこれをひとつの解釈として受け入れる寛容さも持ち合わせなければならない。

とはいうものの、個人的な受け止め方を言うなら、ワシはどんなジャンルの音もしくは響きというものに対しても、必ず何らかのイメージを抱きながら聴くのがクセになっている。そのイメージはひとつではない。何かの物体をイメージすることもあれば、色であったり、エロスであったり、さまざまである。それらのイメージがくっきりと浮かび上がれば上がるほど聴きながら背筋がゾクゾクしてくるのだ。うひゃーっという感じで。

こうした聴き方を前提にすると、現代音楽を演奏する人々の奏でる音には残念ながらあまりゾクゾク感を覚えた記憶がないのだ。なぜなのか考えてみるのだが、今のところ思いつくのは響きに対する執拗なまでの「こだわり」が彼らにはないのではないかというもの。たとえば、ある音を出すのにワシ的な解釈をするなら「この音こそ妖艶な響きが必要だろう」と思っても、演奏者によっては実にサラっと弾き流してしまう。それもくすんだ音で。だから聴いていて、ちっとも面白くないし感動することもない。

何度も言うが、これはワシの感じ方であり、それが絶対的に正しいとは思わない。しかし、長年現代音楽を聴いていて思うのは、演奏者に「狂気」のようなものが欠けている奴が多いということ。演奏技術は優れているのかもしれないが、聴き手に「なんだこれは!」と思わせる何かが欠けているのだ。ことによると、現代音楽がつまらないと思われる原因のひとつは実はここにあるのかもしれない。

演奏家に一番やって欲しくないこと。それは現代音楽ならば何とかなるかもしれないという「逃げ」のスタンスだ。たとえて言えば、ピアノでは勝負にならないが、チェンバロなら演奏家として食えるかもしれないという安易な発想のようなものである。

作品様式というのはもちろん時代によって異なるし、演奏家によっては古典派の表現は得意だけれどロマン派の表現は苦手だということはある。でもそれは、一定以上の演奏表現ができるという前提での話。でもロマン派以前の作品がうまく演奏できないから現代音楽に走るという動機で演奏に取り組んでいるとしたら、それは大間違い。ダメな奴は何をやってもダメなのだから。

どんな時代であっても響きには生命が吹き込まれていなければならないと思う。現代作品だからといって、単に音を出せばよいというものではないのだ。それは即物的表現とは別の次元の話なのである。
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なんと不便な!

2006-02-01 17:17:53 | 脳みその日常
少し前に光ケーブルの接続の申し込みをした。したがって、ADSL接続は1月いっぱいで終了。ところがどうやら事務手続きに不備があったらしく、昨日の午前中からネットに接続ができなくなっていた。そう、ADSL接続が非情にも回線アウトしていたからである。

慌てて問い合わせてみる。すると光ケーブルの工事をしなければネットに接続することはできないとのこと。それも最低2週間ほど時間を要するという。困ったな、こりゃ。原稿を送ることもできない。

さあて、どうしようか。いろいろ考えた末、開通するまでダイヤルアップ接続でネットにつなぐことにした。これで何とか原稿を送る方法は確保できたので、ちょっと安心する。

それにしても、ADSLの伝送速度に慣れきっているとダイヤルアップ接続がいかにノロいことか。ブラウザ画面がちっとも動いてくれないし(苦笑)そうか、前はこんな調子でネットをしていたんだな。それも電話代を使って…。課金されると思うと、のんびりネット・サーフィンもできやしない。やむを得ずサーフィンはしばらく自粛である。

ところで、昨日の講座はなぜか大盛況。悪天候にもかかわらず通常の倍近くの受講者が来た。当講座は入会金もなく1回1回の受講ごとに受講料を支払う制度なので、受講者の人数でワシのギャラが決まるのだ。そういうシステムをとっているのは有志で運営する講座だからである。いずれにしても大勢の受講者が来てくれるのは本当に有り難い。

さて、昨日のテーマはヴィヴァルディ(1678-1741)の《四季》。もちろん全曲を取り上げたらそれだけで時間が終わってしまう。だから「春」だけに焦点を当てて話をした。

ヴィヴァルディのイメージした春は言うまでもなくヴェネツィアの春である。でも国が違えば春のイメージだって違う。そこで春という題名の曲をいくつか聴き比べてみることにした。ついでにピアソラの《ブエノスアイレスの春》なんても余興で聴いてもらう。当講座ではクラシック音楽の講座なのに時にはタンゴも登場するのだ!

だけど、マトモな話だってちゃんとする。ヴィヴァルディが生きた当時のヴェネツィアの社会状況とか、もっと話を広げてバロック音楽の特徴などを簡単に話した。むろんオヤジ・ギャグを交えながらであるが(笑)

というわけで、このブログはこれまでのように毎日更新することができないかもしれないけれど、どっこいワシは生きてますんでご心配のないように。
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