ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

手書きの手紙

2006-02-12 06:45:07 | 脳みその日常
最近、手紙を書いてますか?

前にも書いたように、近年誰かに連絡するには電子メールで事足りている。相手がどんな人であっても関係ない。友人へのくだらない内容のものも、高名な先生宛のもの、さらには海外の出版社であっても、メールはメール。すべてはアプリケーションのメール・ボックスへ保存される仕組みだ。

確かに電子メールは嵩張らないのでジャマにならない。しかし操作ひとつで一瞬のうちに消えてしまう危険も孕んでいる。うっかり消してしまったら、基本的にはもう元には戻せない。電子メールの便利さは消去されてしまう危険と表裏一体の関係にあるといってもよい。

なぜそんなことを書いたのかというと、先ほど部屋を整理していたら昔からの郵便物がゴッソリ出てきたからである。モノによってはかなり変色していたりする。でも、それぞれの郵便物には思い出がある。とっくに忘れてしまっていたことも、その手紙を見た瞬間に当時のことがよみがえってくる。

当時留学していた友人からのエア・メール、今は亡き先生方からの自筆の手紙、知り合いの演奏家からの手紙、外国の出版社とのやり取りの手紙…。次から次へと出てくる。気づけば、貪るように読み返している自分がいた。手書きの手紙の良さはそんなところにある。その手紙さえ見れば、いつでも当時に戻れる。いやー、不思議だねえ。

だが、過去の電子メールを読み返しても、同じような感慨に耽ることは少ない。記録が活字ということもあるだろう。肉筆の暖かみの感じられる文字はそこにはない。仮にその当時の記憶がよみがえることはあっても、そこには思い出せない何かがあるような気がする。

今時こんな考え方は古いのかもしれない。過ぎ去った昔のことなど、もうどうでもよいではないかと言われればそれまでだ。だけど、目の前にある過去の郵便物の束を見たら、簡単に割り切れない自分がそこにいるのもまた事実。うーん、やはりワシは古いタイプの人間なのかな。

といって、じゃあ、手書きの手紙を書いてみようと思わないのが、また悲しいところだ。だって、キーボードをちょいと操作すれば手紙と同じ情報量のメールは完成してしまうんだからね。封筒と切手を用意しなくてもメールは相手に届いてしまうんだし。こうした便利さに負けて現代の人々は手書きの手紙を書かなくなっているんだろうな。良いのか悪いのか…。

ちょいと複雑な気分である。
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