ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

つらい歴史が…六ヶ村溜池

2022-07-21 06:54:22 | 秋田(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。暑いですなぁ。ブログを書くのも億劫になりますがジジイは負けません。気合いで続けます。今回は秋田県由利本荘市赤田壱斗沢(ゆりほんじょうし あかた いっとざわ)にある子吉川水系の六ヶ村(ろっかむら)ため池を訪れます。アクセスは県道69号から一般道へ進み、赤田川を渡った最初のT字路を左折。さらに進むと道が二股に分かれるので右方向へ進み、道なりに行くと目的地に到着します。

見えてきました。あれですね。



右岸側に到着しました。そこには「六ヶ村ため池の沿革」が記された案内板があります。それによると、同ため池は江戸時代の宝暦年間(1751-1763)に亀田藩第六代藩主である岩城隆恭(いわきたかよし:1724-1782)がこの地域の水不足解消のために藩営事業として築造したものだそうです。当初、その受益地が6つの集落(平岡、漆畑、中の目、女岡、畑谷、山田)だったことから「六ヶ村堤」と命名。その後何度か堤の嵩上げ工事が行なわれ、南内越地区も受益地にするため昭和16年(1941年)に改修工事に着手し、昭和27年(1952年)に完成。ところがこの工事では戦時中の粗悪なコンクリートを使用したためため池の老朽化が顕著となり、これを改良するため秋田県営の大規模ため池事業として昭和42年(1967年)に工事に着手し、昭和44年(1969年)に完成。現在に至っています。



なるほど、歴史があるんですなぁ。

これが、いわゆるダム上。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水側の様子。



一方、下流側の景色。



左岸寄りには管理棟のような建物。「水土里ネット内越」とあるのはここを管理しているのが内越土地改良区(1951年設立)であることを示します。(参考





左岸に来ました。振り返ると、こんな感じ。



左岸側から見た下流側の様子。



さらに左岸側には越流式の洪水吐があります。貯水量の水位を調節できるようになっていますね。いずれにしても増水時になると、水はここから溢れ出て、





この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



左岸には「六ヶ村溜池工事竣功記念碑」と刻まれた石碑が。



その裏側には右岸にあった案内板よりも詳細な年月日が記されています。つまりため池を起工したのは1941年10月5日で、竣工は1952年11月26日…などなど。



そこからため池を見ると、こんな感じ。



歴史を紐解くと、このため池が築造された頃、つまり1761年4月に亀田藩の100名以上の藩士が隣接する久保田藩(秋田藩)へ逃げるという「亀田藩士秋田退散事件」が起きています。その逃亡の理由は藩財政が逼迫したことで藩士の俸禄が削減され、藩士の生活が困窮したためでした。つまりこの地域では当時農民ばかりでなく武士たちの生活も苦しかったということなのでしょうね。うーむ。
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