ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

こんな時代だからこそ

2007-11-07 07:01:00 | 脳みその日常
4日は高校時代の友人の3度目の命日。通常ならば当日横浜のお宅に伺って故人を偲びつつご遺族とお話をすることにしている。ところが今年はその日ご遺族が供養のために不在ということで、翌日つまり5日に伺った。

お母様はお元気そうだったが、まだ息子の死から完全に立ち直っていないように思われた。そりゃそうさ、身内の死というのはいくら時間が経過しても忘れることなんてできない。自分が亡くなるまでその悲しみは続くのであり、耐えなくちゃならない。ツラいけれど仕方がないものなのだ。

どんなに願っても亡くなった者は帰ってこない。ワシにできることがあるとすれば、残されたご家族を励ますくらいしかない。毎年彼の自宅に伺うのはそうした理由からである。

ワシが勝手に押しかけているにもかかわらず、お母様は喜んで迎えてくださる。そして、

「こんな世の中なのにわざわざ息子のために来てくださって…」と話された。

「こんな世の中とはどういうことですか?」
「ほら、今の時代、誰もが自分のことで手一杯でしょ?」
「ええ、まあ、そうですね」
「他人のことなんて構っていられないはずなのにアナタは来てくださるじゃない」
「そりゃ、古くからの友人ですもん。当然のことですよ」
「アナタは当然と言いますけど、そういう気持ちが私は嬉しいんですよ」

そんなことを言われてワシは大いに照れたのだが、改めて考えてみるも、ワシがしていることは決して特別なものではない。他人を思いやるのは人間として当たり前のこと。むしろ問題なのは「他人のことなんて構っていられない」時代になってしまったことなのではないか。

いみじくもお母様が指摘されたことは的を射た発言だ。間違いではない。他人に無関心な人は確かに増えた気がする。そうした人が大勢を占めれば「他人のことなんて構っていられない」冷たい社会になるのもやむを得ないのかもしれない。

だからといってその社会のあり方は正しいのだろうか。ワシは違うと思う。自分だけが幸せになればいいとか自分だけが金持ちになればいいという発想では、自身の成長はおろか真の意味での成熟した社会は望むべくもない。

環境が人を作るという言葉がある。その論からすれば冷たい社会で暮らす人は冷たい人間になるということになる。なぜそうなるのか。似た者同士は衝突しないことを人間は本能的に知っているからだ。だからこうした環境の中で生きる人は知らず知らずのうちに冷たい人間になってゆく。これは処世術といってもよい。

でも、そこで「ちょっと待てよ?」と気づいて欲しい。他人が自分に冷淡だからといって、果たして自分も他人に冷淡になる必要があるのかどうかということを。

自分だけが他人に思いやりをもつことは一見自分が損をしているように感じるだろう。損をしたくないから自分も冷淡になる。そうすれば損をしたと感じなくて済む…。

いやいや、そうじゃないんだよ。社会精神というのは大多数の人々の考えが反映されたものではあるが、それが必ずしも人間の行為として正しいとは限らないのだ。むしろひとりの血の通った人間として他人にどう接するべきなのかを考えれば答えは自ずと出るはず。

他人を思いやる人が社会のなかで増えれば増えるほど、もっと暮らしやすい社会になると思うんだけどな。目先の損得で行動を変えるのは愚民のすることなのだよ。
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