とある演奏会に行った。座席に腰掛けてから、ホール入り口で手渡されたパンフレットに目を通す。目的は演奏者の情報を知ることと曲目解説を読むためだ。
演奏者プロフィールに続き、「曲目解説」と記されたページを開く。読み進めて行くが、作品についての説明がなかなか出て来ない。最後のほうになってようやく作曲年などなどの情報がチョロっと書いてあった。そこに至るまでのダラダラとした内容は解説どころか、この執筆者がヨーロッパを旅したいわば「紀行文」である。
あれ?ここは確か「曲目解説」のページだよな? 念のため確認してみた。該当するページの冒頭には、しっかりと「曲目解説」とある。ひどいね、こりゃ。一体誰が書いたんだ? 見ればそれなりに名の通った音楽評論家。
曲目解説と称しながら、ちゃんとした解説文の書けないのは、大体メディアあがりの評論家と相場が決まっている。すなわちかつてはジャーナリストという肩書きをもっていた奴らだ。当夜の解説を書いていたのももちろんそれに属する人で、ブン屋あがり。あぁ、やっぱりな…。
この手の人々は職業柄さまざまな情報を知っている。それはそれで素晴らしい才能だと思うし、尊敬もする。しかし、悲しいかな、彼らは音楽に関する専門的な教育を受けていない。だからいくら情報収集能力に長けていても、作品そのものの解説をすることはできない。ワシが一番不思議に思うのは、できないことがわかっていながら、なぜ彼らは原稿の依頼を受けるのかということである。そこまでしてカネが欲しいのかねえ。
まあ、書いた本人の意識なんてどうでもよい。迷惑するのは「曲目解説」と信じて読まされた我々なのだ。特に初めて耳にする作品の場合、どういう経緯で作曲され、どのような構造で書かれているのか。それを読者は知りたいはず。なのに読んでみれば、この人の優雅な旅行記…。といって作家ではないから特別文章がうまいわけでもない。ったく、依頼と違うことを書くなっての!
いや、そんなクソな文章をそのまま印刷に回した編集者の神経も疑うけどね。いくら名のあるセンセイだからって、依頼内容と異なる原稿が来たら書き直しさせればいいのである。編集者がビビる理由はどこにもないわけだし。そういう書き手をペナルティなしにのさばらせておくから、そいつらはますますツケあがってくる。
嘆かわしいねえ、まったく。
演奏者プロフィールに続き、「曲目解説」と記されたページを開く。読み進めて行くが、作品についての説明がなかなか出て来ない。最後のほうになってようやく作曲年などなどの情報がチョロっと書いてあった。そこに至るまでのダラダラとした内容は解説どころか、この執筆者がヨーロッパを旅したいわば「紀行文」である。
あれ?ここは確か「曲目解説」のページだよな? 念のため確認してみた。該当するページの冒頭には、しっかりと「曲目解説」とある。ひどいね、こりゃ。一体誰が書いたんだ? 見ればそれなりに名の通った音楽評論家。
曲目解説と称しながら、ちゃんとした解説文の書けないのは、大体メディアあがりの評論家と相場が決まっている。すなわちかつてはジャーナリストという肩書きをもっていた奴らだ。当夜の解説を書いていたのももちろんそれに属する人で、ブン屋あがり。あぁ、やっぱりな…。
この手の人々は職業柄さまざまな情報を知っている。それはそれで素晴らしい才能だと思うし、尊敬もする。しかし、悲しいかな、彼らは音楽に関する専門的な教育を受けていない。だからいくら情報収集能力に長けていても、作品そのものの解説をすることはできない。ワシが一番不思議に思うのは、できないことがわかっていながら、なぜ彼らは原稿の依頼を受けるのかということである。そこまでしてカネが欲しいのかねえ。
まあ、書いた本人の意識なんてどうでもよい。迷惑するのは「曲目解説」と信じて読まされた我々なのだ。特に初めて耳にする作品の場合、どういう経緯で作曲され、どのような構造で書かれているのか。それを読者は知りたいはず。なのに読んでみれば、この人の優雅な旅行記…。といって作家ではないから特別文章がうまいわけでもない。ったく、依頼と違うことを書くなっての!
いや、そんなクソな文章をそのまま印刷に回した編集者の神経も疑うけどね。いくら名のあるセンセイだからって、依頼内容と異なる原稿が来たら書き直しさせればいいのである。編集者がビビる理由はどこにもないわけだし。そういう書き手をペナルティなしにのさばらせておくから、そいつらはますますツケあがってくる。
嘆かわしいねえ、まったく。
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