ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

見られてるねえ

2006-03-28 04:27:06 | 脳みその日常
このブログの話ではない。ある雑誌の本年1月号に掲載されたワシの評論のことだ。何気なくネット・サーフィンしていたら、とある地方の人が書いたブログに行き当たった。どうやらこの人、クラシック・ファンらしい。もちろん愛好家なので自分の好きなアーティストについて書いている。愛好家ならそうしたスタンスをとるのは当たり前だし間違っているとも思わない。むしろ熱心だなあと感心させられるほど。

で、そのブログにはどのように書いてあったのか。手前味噌で恐縮だが、ワシの評論を高く評価してあった。この人のお気に入りの演奏家について書かれた文章のなかで唯一分析的に記した批評である、とか何とか…。

ありがたいねえ。全く知らないところでちゃんとワシの文章を読んでくれている人がいるのがちょっと嬉しかった。もっとも、ワシはその演奏について諸手を挙げて評価したわけじゃないけれど。

音楽評論というのは無論感覚に頼る要素はある。しかし、だからといって文学的な香りとか抽象的な用語を散りばめれば良いというわけでは必ずしもない。ワケのわからんレトリックを多用したところで結局何を言っているのかわからない評論は何の意味もない。むしろその演奏がどのような内容で、どこが良くてどこがマズいのかを理由を添えて明確に記したほうが読者にとっては親切というもの。根拠とする理由もないのに「形而上学的な美しさ」とか言われても読むほうは困るよな?「何だい、それ?」と思わずツッコミを入れたくなるだろうし。

でも、評価する理由を示しておけば、当の演奏家にとっても、(もしかしたら)今後の参考になるかもしれない。また、ワシの発言に同意しない人にも、具体的な根拠を示すことは重要だ。なぜなら同意しない人はワシとは異なる根拠(価値観)をもっているのだから、その人にしてみれば「なるほどそういう根拠で聴いているんだな」と理解してもらえるからである。少なくともこちらの根拠を示すことにより、論争は起きたとしても無意味なケンカに発展することはない。

抽象用語で適当に書くのなら評論なんてこれほどラクなものはない。でも、そんなのは書いた本人が満足しているだけであって、読み手のほうはちっとも面白くもないし、当の演奏がどうだったのかすらわからない。読むだけ時間の無駄ということになる。といって、便所のちり紙にすらならないのだから困る。

読者は貴重な時間を割いて文章を読むのだから、書き手としては何らかの有益な情報を提供したい。理想を言うなら読者に「なるほど」と思わせる文章を書きたい。ま、なかなかそれは難しいことだけどね。
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