ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

スポーツと友好

2004-08-11 05:05:55 | 脳みその日常
数日前に「反日運動」でモメたサッカー。
これを含め、しばしば思うのがスポーツと友好の関係だ。
建前としては、スポーツを通じて友好を深めるのを目的としている。
確かに文字通りそうなれば、やるに越したことはない。
だが、実際にはどうなんだろう。

スポーツといわれるもののほとんどは、競い合う性質をもっている。
それは、いわば両者が互いに対抗意識を持つことで成立しているといってもよい。
相手よりも多く点を取るとか、相手よりも速く走るというのが、それだ。
まあ、理想的な友好関係ならば、試合後に相手を称えることで幕引きとなろう。
それは選手レベルの話。

しかし、試合をするからには観客もしくはサポーターの意識も考慮しなければならない。
試合を観戦する人すべてが、敵味方に関係なく素晴らしいプレイを称えるのならよい。
「ナイス・チャレンジ」とか「ナイス・プレイ」もしくは「ナイス・ファイト」など。
ところが、ほとんどの観戦者はどちらかのチームを応援するもののようだ。
そうなると、ついつい感情的にゲームを観戦する結果に。
これが国家間の対戦になると話がややこしくなる。
なぜなら、目の前で繰り広げられているのは単なる試合なのだが、観客の意識には、いつの間にかナショナリズム(愛国主義)が芽生えるからだ。
すると、今回のサッカーのように、いつしか過去の歴史のことまで持ち出すバカが登場する。
問題外だけどな。
果たして、こんなことでスポーツが友好に寄与するものといえるだろうか。

友好を親善という言葉に置き換えても話は同じ。
試合に勝った側はいいさ。さぞ気分がいいだろうから。
でも、負けた側は面白くないよな?
なのに、勝った奴らとどうして心の底から仲良く出来るんだ?
どうも、そうは思えんがね。

相手を称えるということは、それなりの度量の大きさを意味する。
つまり、たとえ自分が負けても相手を受け入れられる気持ちがあるということ。
でもさ、スポーツする人って、基本的に負けず嫌いでしょ?
いくら彼らの性格がサバサバしているといっても、やっぱり負けたら悔しさは残るでしょ。
いや、逆に言えば、反骨精神とか闘争心がなければスポーツなんてできないよ。
ニコニコしてたら、相手に勝とうなんていう気持ちは失せるって。

そうした理由から、ワシはスポーツを通じた親善にはどうも根本的な矛盾があるんじゃないかと思っている。

もっとも、ワシはスポーツをすることがいけないと言ってるわけじゃない。
肉体や技能の鍛錬によって、人間の可能性を伸ばすことができるんだから、大いにやるべきだと思う。

余談だが、F-1はなぜみんなで走らなくちゃいけないんだろうか。
そもそもの目的ってさ、クルマの性能を向上させるためにやってんだろ?
だったら、何も一斉に走る意味はないと思うんだけどな。
むしろ、きちんとしたデータを取りたいのなら、タイム・トライアルで十分。
何も、命を粗末にしたり、マシンをクラッシュさせるこたーない。
まあ、F-1には娯楽的要素もあるんだろうから、仕方ないのかもしれないが。
でも、ムダなことをしていると思うね。
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