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ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

井原市芳井町の大正池

2023-05-22 07:04:58 | 岡山(ダム/堰堤)
今週末に名古屋で出演するコンサートのチケットが完売したそうな。いや〜、そろそろ腹を据えるかな…。

てなわけで、どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市芳井町吉井(いばらし よしいちょう よしい)にある高梁川水系の大正池を目指します。アクセスは芳井歴史民俗資料館近くの国道313号の「芳井支所前」信号を西進し、「←天神山」表示のあるT字路を曲がります。そして芳井化成株式会社近くのT字路を右折し、道なりに進んでいくと到着するようです。

「大正池」の看板があるので、これのようです。道路は右岸側にあり、こちら側には洪水吐があります(写真下部)。

洪水吐の水路には橋が架けられているので渡ってみます。看板には昨日記事にした大池にも登場していたゆるキャラ「でんちゅうくん」が描かれています。

その裏側には「ため池災害ハザードマップ」が表示されています。どうやらこれが井原市のため池表示のフォーマットのようですね。

洪水吐から溢れ出た水が流れる水路。

いわゆるダム上の中央から見た大正池の様子です。前日までに降った雨のせいで水は濁っていました。

一方、下流側には古い民家が見えます。

左岸まで行こうとしたんですが、ダム上の草が半端なく、断念しました。

「大正池」という名称は全国各地にありますが、おそらくほとんどの池は大正時代に築造されたものなのでしょうね。それを示すものがこの右岸の道沿いにありました。この石碑によると、明治45年(1912年)11月に起工し、大正4年(1915年)6月に落成したとあります(このデータはダム便覧と合致します)。


ダム上の看板とこの石碑以外に大正池についての案内板は見当たらないので、岡山県によるため池データベースを調べてみました。それによれば、この大正池は高さが18.4mで、長さが68.0mだそうです(参考)。
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石碑を判読できれば…大池

2023-05-21 07:01:25 | 岡山(ダム/堰堤)
いや、どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市西江原町(いばらし にしえばらちょう)にある高梁川水系の大池を目指します。アクセスは県道291号沿いにあり、直角カーブのところが右岸のダム横になります。

右岸側には洪水吐があるんですが、ご覧のようにそれを渡る橋がありません。だから当然ダム上にも行けず。

上に書いたように県道の直角カーブのところがダム横への入口になっています。そこには「大池」の看板が。

その裏側にはハザードマップが表示されています。

これら両面に出ているキャラクターはなんですかね。気になったので調べてみると、名前は「でんちゅうくん」というんだそうな。このゆるキャラは井原市の名誉市民である彫刻家、平櫛田中(ひらくしでんちゅう:1872-1979)の代表作の「鏡獅子」がモデルらしい。田中の本名は倬太郎(たくたろう)ですが、旧姓は田中(たなか)。あー、なんと紛らわしい。それというのも10歳の時に平櫛家の養子となったので以後の苗字は平櫛になったんだとか。苗字しかない男、それが平櫛田中なのだ!(参考

冗談はさておき、平櫛は1935年に帝国美術院会員となり、1937年には同美術院が改組された帝国芸術院になるとともに芸術院会員に。1944年には東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)の教授に就任。ゆるキャラのモデルとなった「鏡獅子」は6代目尾上菊五郎をモデルとしたもので、20年かけて1958年に完成したものだそうな。ちなみに彼の作品は井原市立平櫛田中美術館で見ることができるんだって。興味のある方は行ってみたら良いと思います。

おっと、大池からだいぶそれてしまいましたね。話を戻しましょう。で、ダム上に行けないので右岸のダム横から大池を眺めてみます。

大池から溢れた水はこの洪水吐を通って、あちらへ流れてゆきます。

ふとダム上を見ると、木々の間から石碑のようなものが。そこには「昭和二十…」「西江原町…」だけが見えて、あとは分からず。


うーむ、釈然としないなあ。でも、ネットを検索したらこの文言は「昭和二十三年(1948年)十二月十日 西江原町大池掛一同建之」ということが判明(参考)。本当ならその裏側に築造の経緯などが記されているんでしょうけど、さすがにそれは分からず。まあ、とにかく大池はこの時期に築造されたのは間違いないようです。

ちなみに岡山県のため池データベースによると、大池の高さは24.0mで、長さは78.0mだそうです(参考)。この数値はダム便覧も同じですが、そこに1986年着手で1987年竣工と記されているのは違うんじゃないかなあと思います。おそらくこれは改修工事か何かを実施した時期ではないかと。そうでないと石碑に記された年月日はなんなんだということになるからです。
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岡山県の青野ダム

2023-05-20 06:52:14 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市青野町(いばらし あおのちょう)にある高梁川水系の青野ダムを目指します。アクセスは国道486号の「西新町」信号から青野方面へ向かう県道291号へ進み、道なりに行くと「←青野池0.3km」の表示があるので、そこを入って行くと到着するようです。

おー、これですね。アースダムかな?

左岸、貯水側からダムを眺めます。

これがダム上。歩いてみましょう。もちろん車両通行可です。

左岸側には越流式の洪水吐があります。前日までに降った雨のせいで水が勢いよく溢れていました。

そして、写真ではわかりにくいですが、この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。

ダム上に掲げられた看板。ここが青野ダムである「証拠」はこれのみ。案内板は見当たりません。うーん、しょうがないなあ、岡山県のため池データベースを調べましたよ。それによると、青野ダムの高さは23.0mで、長さは82.0mだそうです(参考)。ちなみにダム便覧を見ると高さは20.0m、長さは92.0mになってます。

ダム上、中央から見た貯水側の景色です。

一方、下流側の景色を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。

右岸から貯水側を眺めます。こんな黄土色をしていますが、おそらく通常はキレイな水なんでしょうねえ。

下流側の傾斜の様子。さほど急斜面ではありませんね。


青野ダム…そういえば兵庫県三田市にも同名のダムがありましたね(参考)。
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星田川流域の守護神!…星田池(ダム)

2023-05-19 06:57:25 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市美星町星田(いばらし びせいちょう ほしだ)にある高梁川水系の星田池を目指します。アクセスは県道166号沿いにあるので迷うことはないと思います。ただ、ここは昨日書いた星田第二池から星田川を遡ったところにあるので川に沿って行けばいいように思いますが、クルマで行くことはできません。なので、一旦県道407号に出て、それから県道166号に入って行くのがわかりやすいと思います。

星田池は独特な形をしているので、県道166号に沿って長い洪水吐があります。

洪水吐を別の角度から見るとこんな感じ。訪れた前日までに降った雨のせいで洪水吐から水が勢いよく溢れています。そして写真中央に見える水路に流れ込んで下流へ向かいます。

その付近から、いわゆるダム上を眺めます。ダム上は県道166号が通っています。

そしてこれが右岸から見たダム上の道。

おっ、こんなところにピコリーノが…。久しぶりに見た気がします。

右岸、ダム横から下る遊歩道があるので行ってみます。これが右岸から見た斜面の様子。

遊歩道を下りていくと先ほど見た洪水吐から溢れ出た水がここへ出てることが確認できます。写真ではわかりにくいですが、水路は地下トンネルになっていて、ここで滝のように流れ落ちています。

川に沿った遊歩道をさらに下ってきました。そこから上流を眺めるとこんな感じ。写真右上に見えるのがダム上です。

流れてきた水は星田川となって、この水が下流の第二星田池へ向かうのですね。

元来た道を戻ってダム横へ。ダム上、中央から星田池を眺めるとこんな感じ。

一方、下流側の景色です。

対岸(左岸)に来ました。そこには水利使用標識があります。星田第二池と同じく灌漑用水補給のために築造されたものであるのがわかります。

左岸側からダム上を眺めます。

左岸側はちょっとした公園になっていて、ここにはまず2つの石碑があります。

ひとつは「県営畑地帯総合土地改良事業 美星地区 竣工記念碑」と刻まれたもの。

裏側には平成3年(1991年)3月建立とあります。

隣にあるもうひとつの石碑は同改良事業についての概要が記されていて、この事業が1970年から1990年にかけて行なわれたことが書かれています。言うまでもありませんが、これはあくまで改良事業についてであり、星田池の築造年ではありません。

じゃあ、星田池はいつ築造されたのでしょうか。近くには「星田池記念碑」があります。その内容は下記に転記しておきます。


「小田郡小田町(おだちょう)川面村(かわもそん)及び中川村地内の耕地約三百町歩は従来灌漑用水源に乏しく旱天の場合は忽ち被害激甚を極め関係農民の最も憂慮する処であったその対策として一大貯水池を新設し以て旱害の憂苦を免かれんとする地元有志当時の岡山県会議員小野清一郎氏川面村長妹尾宗一氏小田町長佐近徳三郎氏中川村長高月毅一郎氏等の発意により尚星田地内池敷関係者の協力を得て溜池築造の議成り岡山県に於て調査の結果星田池築造の計画を樹立し県議会の議を経て茲に県営事業として昭和十七年四月一日工を起したが時恰も大東亜戦争の影響を受け全く難工を続け数度の計画変更をやむなくせられたにも拘らず幸い関係者の総力により総事業費二千七百万円内訳国庫補助金五割県費二割地元負担金三割と九ヶ年の歳月を費して昭和二十六年三月遂に待望の星田池が完成するに至ったこの池の貯水量百二十三万四千立方米貯水面積十一・四陌堤長百四十米であるこれにより支配地域一帯は永久に旱害を免かれることになり地方農民積年の要望を達成し斉しくその恵沢に浴するに至る茲に星田池築造の記念碑を建設し以て永遠の記念とする
  昭和三十四年四月 星田池土地改良区建之」

要約すると、従来この下流地域では灌漑用の水源に乏しく、日照りが続くとたちまち旱害になる場所だった。その対策として一大貯水池を築造しようということになり、岡山県の県営事業として昭和17年(1942年)4月1日に起工したものの、大東亜戦争の影響で数度の工事計画の変更をせざるを得なかった。しかし関係者の尽力により昭和26年(1951年)3月に星田池は完成したという。ちなみにダム便覧では竣工は1950年と書かれていますが、この記念碑を見ればそれが間違いであるのは明らかですよね。また、同便覧では高さが27.2mとあるので星田池はダムとみなして良いと思います(もっとも、その数値が何に基づいているのかは不明ですが)。

いや〜、こういう記念碑があると星田池の築造がなかなかの難事業だったことがわかりますね。なるほど、なるほど。
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清々しい放流を目撃!…第二星田池(ダム)

2023-05-18 07:00:03 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県井原市美星町黒木(いばらし びせいちょう くろぎ)にある高梁川水系の第二星田ダムを目指します。アクセスは国道486号の「小田東町」信号を成羽(なりわ)・美星(びせい)方面の県道48号へ入り、道なりに進み、美星方面の広域農道へ。そして橋の手前のT字路を左折し、しばらく行くと二又に分岐するので右へ下り、そのまま行くと目的地に到着します。

訪れた前日まで降っていた雨のせいで放流しているのを見ることができました。なかなかの迫力です。

右岸から見たダム上。ダム上は関係者以外立入禁止ですが、

いわゆる親柱のところには「星田川」と「第二星田池」のプレートが嵌め込まれています。


ダム横から貯水側を眺めます。おそらく本来はキレイな水なのでしょうが、この時は黄土色に濁っていました。

右岸には水利使用標識があります。灌漑用水補給のためのダムらしい。

やはりダム横から下流側を見ます。

放流の様子を今一度眺めます。いや〜、清々しいまでの勢い。


その近くには「第二星田池 完工記念碑」と刻まれた石碑があり、

裏側には「昭和59年3月吉日 岡山県知事 長野士郎 書」と記されています。

その隣にはダムの概要が記された石板があります。これによると、当該ダムは昭和59年(1984年)3月に完成した高さ42.6m、長さ108.0mの直線型重力式コンクリートダムだそうです。

この裏側には築造の経緯のようなものが書かれています。それによると、当該ダムは星田川農業用水総合開発の一環として、この上流にある星田池(未見)とともに下流の矢掛町の水田と美星町の畑地灌漑のために築造したものだそうです。


なるほど、じゃあ、次は上流の星田池に行ってみることにしましょうか。
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嶽でないのはなぜ?…鬼ヶ岳ダム

2023-05-17 14:56:49 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県小田郡矢掛町上高末(おだぐん やかげちょう かみこうずえ)にある高梁川水系の鬼ヶ岳ダムを目指します。場所は県道35号沿いにあるので迷うことはなさそうです。

【矢掛町の由来】(参考
ところで、矢掛町の由来について気になったので調べてみました。これについてはいくつか説があり、まずは桃太郎伝説の起源として知られる「温羅伝説」に由来するというもの。温羅(うら/おんら)は古代吉備地方を統治していた伝説上の鬼もしくは人といわれます。彼は4m余りの大男で、自らを「百済の王子」と称し、大陸での戦いに敗れて渡来して来たそうな。吉備の人たちは彼をあたたかく迎えたので、その返礼として彼は当時の百済の造船技術や製鉄技術そして製塩技術などを伝え吉備地方の産業の発展に貢献します。百済の王子はしかし朝鮮半島から敵が来襲すると考え、山頂に城を築きました。その城壁を「ウル」と呼んでいたことにちなみ王子は「うら(温羅)」と呼ばれるようになったそうです。吉備地方の産業が発展するに従い、その勢いは大和朝廷に脅威を与えることになります。そこで朝廷は孝霊天皇の皇子のひとりである吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣し温羅制圧を命じます。両者は矢を放って攻撃しますがなかなか決着がつきませんでした。結果的に吉備津彦命が二本の矢を同時に放ったことで決着をみるのですが、現在の矢掛町は吉備津彦命が放った矢の落ちた場所だったことからそう呼ばれるようになったそうな。

もうひとつの説は当時町内を流れる小田川の川面には家々の影が美しく映り込んでいたそうです。そこからかつては「屋影」と表記されていたそうな。その後、この地域で矢尻を生産するようになったことから「矢掛」と表記されるようになったというもの。

【高末の由来】(参考
また、高末の由来も気になりますよね?ええ、調べてみましたよ。その由来には2つ説があり、ひとつは昔この辺りで須恵器が作られていたことによるものです。少し前に書いた倉敷市の陶奥池の記事でも触れましたが、渡来人が須恵器の技術をもたらしました。この地域でも須恵器が製造されていたんですね。そして特にこの地域の須恵器は硬かったことから「硬い須恵器」→「硬」「須恵」転じて「高末」という表示になったというもの。

もうひとつの説は香水説。ここでいう香水とは硫化水素の匂い(硫黄自体に匂いはありません)のことで、今回訪れる鬼ヶ岳ダムの上流の鬼ヶ嶽では温泉が湧いていて、その匂いから匂う水→香る水→香水→高末に転じていったというもの。

ま、そんなこんなで左岸のダム横に到着しました。

左岸、上流側からダムを眺めます。

そして、これがダム上。歩いてみましょう。

いわゆる親柱に相当するところには「鬼ヶ岳ダム」のプレートが嵌め込まれています。

美山川を堰き止めて築造されたんですね。

ダム上、中央にある洪水吐ゲートなどは1970年1月に設置されたものらしい。

中央から貯水側を眺めます。

ダムの真下を覗き込み、

下流側の遠景を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

右岸側には「鬼ヶ岳ダム 完工記念碑」があり、

その裏には昭和44年(1969年)11月吉日とあります。

右岸側には管理事務所がありますが、

老朽化が進んでいます。


当該ダムに関しては案内板が見当たらなかったので調べてみると、これは高さ39.0m、長さ96.0mの農林ダムらしい(参考)。

うーん、完工は1969年で、洪水吐ゲートなどは翌年に設置されたということなんでしょうか。それにしても当該ダムの表記が「鬼ヶ岳」なのに対し、上流の鬼ヶ嶽温泉の表記が異なるのはなぜなんでしょうね。「嶽」の字が難しいからかな?
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兄さんも頑張るゾ!…尾坂池(ダム)

2023-05-16 07:00:24 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県笠岡市関戸にある高梁川(たかはしがわ)水系の尾坂池を目指します。場所は山陽自動車道の笠岡インターチェンジの北東に位置し、県道168号沿いにあるようです。

おー、これですね。到着です。

右岸の、いわゆるダム横には「尾坂池 完成記念碑」があります。

その裏側には諸元が記されています。高さ24.6mで、昭和39年7月に着工され、昭和41年(1966年)3月竣功。

右岸、尾坂池側から見たダム上の様子。

これがダム上です。歩いてみましょう。

案内板。尾坂川は阿部山(あべさん:標高397.7m)を源流とする川ですが、昨日記事にした杉谷池のケースと同じく渇水時には水の奪い合いが、そして増水時には氾濫が起こる、いわば面倒臭い川だったようです。そこで尾坂川を堰き止めて築造したのが尾坂池で、これにより農業用水の安定供給が可能となり、水害を防止する役割も担っています。

ダム上、中央から見た尾坂池の様子。

一方、下流側はこんな景色です。

洪水吐は左岸側にあります。前日まで降っていた雨のせいで、物凄い量の水が溢れていました。

溢れた水はこの水路を通って、あちらへ流れてゆきます。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。写真下部のフェンスのあるところの下が洪水吐からの水路です。

左岸、尾坂池側から見たダム上。洪水吐から溢れ出る水の量がわかりますか?

最後に池の下に行ってみました。いやいや、立派、立派。

斜面をよく見ると、そこには「尾」「坂」「池」の文字が…。


杉谷池の築造が1967年なので、この尾坂池はひとつ年上のお兄さんということになります(笑)
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見応えのある池…杉谷池(ダム)

2023-05-15 06:58:29 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県浅口市鴨方町小坂東(あさくちし かもがたちょう こさかひがし)にある里見川水系の杉谷池を目指します。場所は山陽自動車道の鴨方インターチェンジの北西に位置し、県道155号を北上していくと到着します。

いわゆるダム横に到着しました。ダム上に行く前に、まず県道を上流方向へ行ってみます。

最初に目にとまるのが「杉谷池記念碑」(昭和43年3月に建立)。

ここには杉谷池築造の経緯が記されています。ざっと要約すると、ここを流れる杉谷川はちょっとした雨でも氾濫するとともに渇水すると大変な旱魃が発生していたそうな。特に大正13年と昭和14年の旱害は言語を絶するほどだったそうです。治水対策が近隣農家最大の関心事であり、昭和24年(1949年)になって橋本龍伍(※)代議士の援助とともにようやく築造の機運が高まります。25年地質調査開始され、26年には実施計画が作成されます。そして翌27年、県営杉谷池用水改良事業として確定し工事に着工。同年12月には杉谷池土地改良区が設立。その初代理事長には岡山県議会議員だった丸本市松(丸本酒造当主)が就任。当初の計画では昭和29年に杉谷池は完成する予定だったが、様々な問題が噴出。しかし丸本の粘り強い説得と情熱で関係者の理解と協力援助を得ることにより昭和42年(1967年)に高さ29m 長さ101mの杉谷池はようやく完成したという。

(※)橋本龍伍(はしもとりょうご:1906-1962)は東京府荏原郡に生まれ、東京帝国大学法学部を卒業し大蔵省入省。1949年の参院選で岡山二区から初当選。選挙区が岡山二区だったのは父の卯太郎(うたろう:1869-1938)の生誕地が現在の岡山県総社市だったことに起因する。厚生大臣、文部大臣を歴任。喉頭癌により死去。総理大臣を務めた龍太郎と高知県知事を務めた大二郎の父。

この表示板から当該池が農林省(現在の農林水産省)の補助事業だったことがわかりますね。

記念碑の近くにある建物。その壁に貼られているプレートには1989年2月とありますが、これは取水バルブと土砂吐ゲートを設置した年月を示したもので、これも農水省の補助事業のひとつと思われます。


その付近から見たダムの様子。

では、いよいよダム上を歩いてみます。右岸側には越流式の洪水吐があり、訪れた日には前日まで降っていた雨の影響で凄い量の水が溢れていました。

その水はこの水路を通って下流へ向かいます。

ダム上、中央から見た杉谷池の様子。

中央には小さな案内板があります。これによれば、高さは35.6mで、長さは101.7mのアースダムだそうですが、岡山県のため池データベースによれば、高さ29m、長さ102mと記されています。高さの値がだいぶ違いますね。

そして、下流側はこんな景色です。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸から杉谷池を眺めます。向こうには先ほどの記念碑が見えます(写真中央)


灌漑用水専用のダムですが、築造の経緯も明確に説明されていて見学者の立場からすると見応え十分でした。
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とんがり帽子が目印!…陶奥池

2023-05-14 06:56:47 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県倉敷市玉島陶(たましま すえ)にある高梁川(たかはしがわ)水系の陶奥池(すえおくいけ)を目指します。場所は山陽自動車道の玉島インターチェンジの西側に位置し、備南街道から入っていくと到着します。

【玉島陶の由来】(参考
ところで、この玉島地区の陶という地名はもともと渡来人が住んでいた場所で、彼らは陶器の技術を日本に伝え、ここで須恵器を製造していたのだそうです。「陶」を「すえ」と読むのは昔は陶器のことを「すえき」と呼んでいたことに由来します。そして池名は「陶」という地の奥にある池なので陶奥池と命名されたものと思われます。たぶん。

まあ、そんなこんなで陶奥池の右岸にやってきました。

右岸から見た、いわゆるダム上です。歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た陶奥池の様子。

下流側を眺めると、こんな感じ。

左岸側には洪水吐がありますね。

越流式の洪水吐です。増水すると、水はここから溢れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。

洪水吐の水路に架かる橋を渡ると対岸(左岸)になります。振り返るとこんな感じ。

左岸、陶奥池側にあるトンガリ帽子のようなこの建物はなんでしょうね。管理所のようですが、それを示すものはありません。

そこからダム上を見ると、こんな感じ。

左岸の道を少し下がったところから右岸方向を眺めます。

そして、左岸方向の様子。


探し方が悪かったのか、案内板を見つけることはできませんでした。でも、このサイトによれば案内板はあるようで、それによると陶奥池は灌漑用水の確保、洪水防止を目的として平成4年(1992年)に完成した高さ22.5m、長さ136.2mの防災ダムだそうです。ちなみに、岡山県のため池データベースでは高さ23.9m、長さ135mと記載されています。どちらも岡山県が公表しているのにそれらの数値が異なるのはどうしてなんでしょうねえ。数値をすり合わせたらいいのに。
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法界だから大きく見せた?…小原池

2023-05-13 06:57:22 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県倉敷市児島柳田町(こじまやないだちょう)にある小田川(おだがわ)水系の小原池を目指します。アクセスは県道268号の「柳田西側口」信号のT字路を入り、瀬戸中央自動車道方向へ道なりに進むと到着します。

小原池はダム便覧に載っていますが、池名の由来は不明。

で、県道268号を進んで来ると左岸に到着します。

いわゆるダム横から見た斜面の感じ。

小原池は県道から少しだけ下にあり、左岸の傍には地蔵様がいらっしゃいます。その足下には「法界」と記されていて、その意味は「意識の対象となるすべてのもの」「全宇宙」…。おおっ、スケールがデカい!

これがダム上。歩いてみましょう。

ダム上、中央から見た小原池の様子。

一方、下流側はこんな景色です。

右岸側には洪水吐があり、

増水すると水はこの水路を通って、下流へ向かいます。

そして、右岸から左岸(県道方向)を見るとこんな感じ。


ここには小原池についての案内板はありません。念のため調べてみると岡山県のため池データベースでは高さが11.7mとあります。あれれ、15.0m未満ではないですか!改めてダム便覧を見るとなぜか15mと記されています(参考)。いや、ちょっと、どーゆーこと?無理やりねじ込んだか?(笑)
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総社市の「そうでないほう」の大正池

2023-05-12 06:52:35 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回はグーグル先生の地図で岡山県総社市宿(そうじゃし しゅく)に大正池というのを見つけたのでそこを目指すことにします。アクセスは県道270号沿いにある「水仙亭」のところのT字路を入って行くと到着します。その道は細いので要注意!ちなみに付近には駐車スペースがないので適当な場所を探して停めるしかありません。

おー、見えてきました。これですね。

左岸、いわゆるダム横に来ました。では、早速ダム上を歩いてみることに。

ふと足下を見れば「大正池」と刻まれた石碑が…。側面には「大正八年頃完工」と記されています。大正八年というと1919年ですね。

ダム上、中央から大正池を眺めます。

一方、下流側の景色はこんな感じ。写真中央に見えるクリーム色の建物が「水仙亭」。

池には鯉が泳いでいたりします。

対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。写真下に見えるのは洪水吐。

橋の下は越流式の洪水吐になっていて、

その洪水吐から溢れ出た水は、この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。

右岸から大正池を眺めます。


ここは立派な築造物ですが、岡山県のため池データベースには記載されていません。ため池扱いではないのかな?じゃあってんでダム便覧を検索してみると岡山県総社市には大正池なるものが載っているんですが、それは別の場所で、ここではありません。

あら〜、じゃあ今度はここではない大正池に行かなくちゃな。はははは。
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岡山の川上ダム

2023-05-05 06:59:28 | 岡山(ダム/堰堤)
いや、どーも、ワシです。さて、今回は岡山県美作市川上(みまさかし かわかみ)にある吉井川水系の川上ダムを目指します。アクセスは国道429号を西に向かい県道357号へ分岐する手前のT字路を真船川(まぶねがわ)に沿うように登って行くと到着します。

見えてきました。あれですね。

右岸、貯水側から見たダムの様子。

これがダム上です。進んでみましょう。

越流式の洪水吐は右岸側にあります。増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。

ダム上の水路に架かる橋には「真船川」の表示が。

ダム上の水路に架かる橋を渡ったところには「県営農地開拓事業 完成記念碑」の石碑があります。

裏側には概要が記されています。それによると、大原町西南部の8部落(川上、野形、桂坪、田井、青田、小原田、下庄町、滝)に跨る丘陵性台地を開発し、63.34haの農地を造成。これに伴い総貯水量251,660㎥の川上ダムを築造。これを水源として開発地区の灌漑を行なうことで自立経営の基盤を確保し、農家経済の安定を図ることを目的としたそうな。工事着工は昭和39年で、完成は昭和48年(1973年)。ちなみに大原町とは1922年10月1日に英田郡(あいだぐん)に発足した町で、2005年3月31日に英田郡美作町、作東町(さくとうちょう)、英田町、東粟倉村(ひがしあわくらそん)、勝田郡勝田町と合併して美作市になっています。そのためこの石碑を建立した時点では英田郡大原町だったというわけですね。

ダム上を進みます。これが中央から見た貯水側の景色です。

一方、下流側はこんな景色。

対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。

左岸、ダム横から見た貯水側の様子。


周囲に案内板はありませんが、石碑から判断すると川上ダムは農地灌漑用に築造されたダムのようです。そう言えば、三重県伊賀市にも同名のダムがありましたね(参考)。もちろん両者は規模も目的も違いますが。
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発電は後付けで!…久賀ダム

2023-05-04 07:04:37 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県美作市久賀(みまさかし くが)にある吉井川水系の久賀ダムを目指します。アクセスは国道429号の「真加部」信号を「鳥取、奈義(なぎ)」方面(県道51号)へ向かい、梶並川(かじなみがわ)に沿って走る県道7号を進んで行くと目的地に到着します。

まずはダム下へ行き「ご尊顔」を眺めます。治水ダムのようですね。


続いて左岸のダム横に向かいます。ダム横にある建物の壁には水利使用標識があります。灌漑を目的としたダムのようですね。


その建物の隣にあるのが「久賀ダム管理事務所」です。



その上流側にはそこそこ広い駐車スペースがあります。そこからダムはこんな感じに見えます。


駐車スペースのところには「久賀ダム」と刻まれた石碑があり、

その下部には諸元が表示されています。それによれば当該ダムは洪水調節と農業用水源を目的とした高さ36.5mの直線型重力式コンクリートダムだそうな。工期は1969年12月から1973年3月まで。


これが左岸から見たダム上。歩いてみましょう。


ダム上、中央から見た貯水側の景色です。


一方、ダムの真下はこんな感じで、

下流側の遠景はそんな感じになります。


ダム中央にある余水吐(洪水吐)ゲートに貼られたプレート。ゲートは1973年3月に製作されたものらしい。


…てなわけで、対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。


橋で言えば親柱に相当するところに嵌め込まれたプレート。岡山県営のダムで、竣功は1973年3月。ということは洪水吐のゲートはダム築造時から改修されていないということですね。

「くがダム」と読みます。パソコンで久賀と表示するには「くか」と打ち込めば出てきますが、「くが」では出ません。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


上に表示した諸元では洪水調節と農業用水源を目的としたダムとありますが、どうやらそれは築造時のもので、その後、ダム下に久賀発電所が設置され、1982年4月より運用開始しているようです。従って現在では久賀ダムの目的には発電も追加されていることになります。(参考
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農地灌漑用に築造!…柿ヶ原池(ダム)

2023-05-03 06:52:00 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県美作市柿ケ原(みまさかし かきがはら)にある吉井川水系の柿ヶ原池を目指します。アクセスは県道46号沿いの「←柿ケ原 田渕」の表示板のあるT字路を入って行くと到着します。

見えてきました。どうやら、これのようです。


右岸、いわゆるダム横に来ました。でも、ご覧の通り、ダム上に行くことはできません。


ダム上には案内板らしきものがあります。それによれば、これは農地灌漑用の貯水ダムで、4.0km以上離れた高原台地の農地へ水を供給するために築造されたものだそうです。ただ、これは柿ヶ原池の雑木林の説明であり、諸元は記されていません。記載内容は池の周囲の生態系に関するものです。


案内板に「ここより上流には民家は見られないことから、ヤマセミ、アオゲラ、カケスなどの野鳥や、シカ、イノシシ、テン、リスなどの哺乳動物にとって天国のような空間」とあるように、ここは自然がそのまま残っている場所です。だから水もこんなにキレイ。


ダム横から下流側を眺めると、こんな感じ。


諸元がないため、ダム便覧を調べてみます。柿ヶ原池は高さ16.0mのアースダムで、1970年に竣工したと記されています(参考)。でも、これ、どうやって調べたんでしょうね。
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瀧の宮ダムを考察する!

2023-05-02 06:58:13 | 岡山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は岡山県美作市滝宮(みまさかし たきみや)にある吉井川水系の瀧の宮ダムを目指します。アクセスは県道46号の瀧の宮トンネルの南側出口の手前のT字路を入って行くと到着します。

このダムの形はちょっと変則的で、T字路からの道がそのままダム上に繋がっています。

上の写真下部のガードレールの下に洪水吐からの水路があり、ここの河川名は河会川(かわいがわ)と言います。


ガードレールから見た越流式の洪水吐の様子。増水すると水はここから溢れ出て、

この水路を通って、あちらへ流れてゆきます。


ダム上を進みます。中央付近から右岸側の洪水吐を見るとこんな感じ。

そして、貯水側の景色です。


一方、下流側はこんな感じです。


対岸(左岸)に来ました。振り返ってみます。


左岸には「瀧の宮ダム完工記念碑」があります。


その右側にはダムの諸元が記された石版。洪水調節に特化した高さ28.0mの中心コア型ロックフィルダムだそうです。


その奥にはダム築造に際し湖底に水没した12の世帯名が記されています。説明によれば、瀧の宮ダムは県営防災ダム事業によって築造されたもので、ダム築造に際し上記の世帯の協力に感謝するとともに、ここにかつて彼らが住んでいた証を刻んだもののようです。それにしても「水没者氏名」って表現はどうなんでしょうね。なんかさ、溺死した人たちみたいに思えませんかね。例えば「移転世帯主一覧」とかにしたほうが良かったんじゃないかなあ。


右岸にある建物の隣には貯水湖へ降りる階段があります。その先に見えるオレンジ色の設備は取水装置かな?


お気づきと思いますが、ダム名はここの地名に由来するものでしょうが、地名(滝宮)とダム名(瀧の宮)の表記が微妙に異なっています。これはどういうことなんでしょうか。現在の地名は滝宮ですが、「水没者氏名」の石碑を見ると当時ここは「英田郡英田町瀧の宮」だったことがわかります。つまりダム名は当時の地名表記に準じたということになりますね。

ところで、諸元を記した石板には竣工年が記されていないのでこれらのことから当該ダムの竣工年を推理してみましょう。英田郡英田町(あいだぐんあいだちょう)が発足したのは1955年2月1日で、2005年3月31日に同郡の美作町(みまさかちょう)、作東町(さくとうちょう)、大原町、東粟倉村(ひがしあわくらそん)、勝田郡勝田町(かつたぐんかつたちょう)と合併して現在の美作市が発足しています。ここから考えられるのは瀧の宮ダムが築造されたのは英田郡英田町が存在した1955年から2005年までの間ということになります。うーん、50年間か…。まだまだ範囲が広いなあ。他に築造年を特定するものはないのか。

次に「瀧の宮ダム完工記念碑」を見ると当時の岡山県知事が長野士郎と記されています。これに着目してみましょう。長野士郎(ながのしろう:1917-2006)は現在の岡山県総社市に生まれ、東京帝国大学卒業後、内務省や自治省を経て自治事務次官となり、1972年10月に第8代岡山県知事に当選し、1996年11月まで在任しました。

…ということは、瀧の宮ダムの竣工は彼が知事在任中の1972年から1996年までの間ということになり、範囲はかなり狭まりました。うーん、それでもまだ24年か…。

そこでダム便覧を見てみます。これによると竣工は1980年と記されています(参考)。おっ、ワシの推理もなかなかいいセンいってるじゃないですか。でも、この「1980年」というデータはどこから引用したものなんでしょうね。典拠が示されていないのでイマイチ信用できないんですけど〜。

ま、ダム巡りにはこんな楽しみ方もあるんですよねー。どーでもいいことなんですけど。
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