湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

3/13 東日本大震災の報道に危機感を募らせつつ(2)街を歩いて

2011-03-19 05:04:36 | 引きこもり
2011/03/13 記
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(その2)
生活圏全体が非常事態を強く感じさせるようになった。JR各線や私鉄関連も運休や間引き運転となり、私の仕事はもろに煽りを食らいはじめている。私の巡回先は、相模大野やJR相模原を起点にしている。橋本や南大沢・海老名・中央林間・東林間は、相模線や小田急江ノ島線を中心にしている。この相模線や小田急江ノ島線が運休にされては、茅ヶ崎からは向かい様がないのだ。ましてや東海道線が運休されてはお手上げとなる。さすがに本校は来いとは言わなかった。下手をすれば長期戦になる。そのとき、巡回先への責任はどう果たしたらいいのだろうか。

携帯からの電話は使い物にならない。固定電話からの通話も、回線が混み合っていると遮断されがちで、時間に寄ってはこれも無音になってしまった。

すべての巡回先に謝罪の電話を入れた。しかし偶然つながったところと話をしている様なのだ。そんな中、困ったことが起きた。我が家の懐中電灯ふたつに入れておいた乾電池が爆発し、内部は緑青をふいていた。ひとつは本体が使い物にならなくなっており、もうひとつは単一電池が必要だった。近隣の店から懐中電灯・乾電池の単一~三、ろうそく、水が忽然と無くなったのだった。買占めは止めておこうと母と話していたが、パンまで手に入らなくなるに至って、さすがに買物に出かけざるを得なかった。

ところが余震の地震警報注意報・大津波警報が出っぱなしになったせいで、駅ビルやスーパー、百貨店が店を閉じてしまった。我が家の本業も警報や停電がらみで、委託先の営業を休業する事態になって、安閑としていられない事態になってきていた。

しかし困った。懐中電灯不足はなんとかするとして、乾電池がなければ無用の長物になってしまう。近くの家電店を訪ねてみたが、単五しか残っていなかっただけではなく、昔の小型ラジオはもう売れないものと諦めていたが、そのラジオを完売したのだと、店の奥さんが顔面を崩して喜んでいるのだ。乾電池が無い状態は深刻な状態にあると知ったが、後の祭りだった。

タクシーは駅前の待機車が無くなり、パン屋は個人店も休業だった。とぼとぼと某議員の選対事務所前を通ると総決起集会中止の張り紙があった。私は夜にある市会議員候補者の集会に誘われていたので、電器店まわりを足を伸ばして続けていた。カップ麺や米も無くなっている上、飲食店が閉まっているので、休むことも出来なかった。怒る母をなだめて出てきたのだが、これで震災で古い瓦葺の我が家がつぶれたら生涯文句の種になりそうだったが、相模原に行かないで近くにいるのだからと説得して家を出てきたのだった。実態は行かないのではなく行けないのだった。日が落ち、私は某国会議員しか知らない保守系の候補者の会を覘きに行った。某議員には私は左の人間として勝手に党派のレッテルを貼られていたので後で何事かと思われるのは必至だった。

私は候補者に障がい畑の保守への橋渡しの可能性を見極めるために来たのだが、そこで語られる障がいとは身体障がいのことであり、きれいに心の障がいは回避されていた。他にも問題があったのだが、本人の名誉のためにあえて語らないが、幻滅することもあった。友として参加したのだが、政策が全く語られないのは、保守の集まりの特徴。年齢層の高い爺さん群の席からいち早く会が終わった会場を後にしたのだった。組織の代紋を担がず、私は私。そのやり方を通しているが、震災で町の明かりが暗くなっている中で、何をやっているのだろうと、早足でバスの本数が多いところまで歩いた。

施設や組織を基軸に活動している者を除くと、湘南の生き辛い者たちの支援の地域活動はなんでこうも貧弱なのだろうと思う。ばらばらである。領域横断の構想は、それぞれの仕事を全うしようとする人たちの意識からは無視されていく。だれもが大きな見通しのなかで今の自分の仕事を見直していくことの大切さを見失っているように見える。

ある学会のゲストの講演に私も耳を傾けていた。その職種に直結する仕事の方の話の時、着席していた某専門職が、市民活動の講演者に変わった瞬間、群れを成して退席していった。しかしそれは、その仕事を地域に活かして欲しいと訴える内容であることは事前のパンフレットで明らかだった。他の分科会があるわけでもなく、ただ話を関係ないと予断を下した結果だった。特にプロは、この傾向が強い。この人たちに地域横断の創造性を要求することは無益なことなのだろうかと思う。そういう地域の空白をどう埋めていくか、それは同時に不況に淘汰される組織の展望の課題であったり、支援の谷間に沈む地域の行き難さを抱えた方々に、つながりを提供する支援であったりする。

炭谷氏の講演で提供された「ソーシャル・ファーム」「ソーシャル・インクルージョン」の要にある「健常者との協働」という概念は、地域横断のような発想の転換が要求されている。道を歩いて雑踏の流れを知るのと、鳥瞰して流れを観るのでは判断が大きく違ってくるだろう。本人に空を飛べと言っているのではなく、鳥の眼を持つ想像力を持とうと言っているのだ。実務を越えて自分の仕事を受ける側からの鏡の視座や、他領域からの鳥の視座を通じて、連携の活動を創ろうと思っているのだ。こういい続けて10年が過ぎていったのだ。

バス停から茅ヶ崎駅行きに乗って、お節介なガイドを聞きながら、私は故き祖母の葬儀のときに知り合った葬儀屋のことを突然思い出した。こうして時間外に飛び込んだ闖入者に「ろうそく」を分けてもらったのだった。現代の葬儀は電球を組み込んだ偽物のろうそくを使うが、それでも大きなろうそくを用意している。彼には小学生への理科実験に使う多量のドライアイスも都合つけてもらった。縁起を担ぐひとにはとんでもないことかもしれないが、ともかく「ろうそく」は入手できた。念のために書いておくが、私だから提供したのだそうだ。葬儀屋さんのお得意さんというのは、遠慮したいのだが。

何をやっているのだろうと自嘲しながらも、最後の釣果に納得していたのだった。

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母の瞼の調子が悪く、眼の芯が痛いと寝込んでいたが、暗闇の中、相変わらず寝込んでいた。これをやっていると、本格的に鬱病が表に出てくる。震災の手詰まり状況だけでも何とかならないかと、明かりをつけてろうそくを見せた。

地獄絵のような津波の被災画像を見ながら、速成の夕食を作って食べた。やっと会話らしい会話が出来た。ジブリの「ハウル」の影、「ポニョ」の浸水に暗示された化け物性を帯びた濁流は、アニメの虚構の軽さを超えて実在の家屋を飲み込み、電柱をなぎ倒した。母は戦災の都心の焼け野原を連想し、私は伊勢湾台風に浸水した町や阪神淡路大震災の倒潰した町を連想していた。しかしその画像の極一部に逃げ遅れて波に飲み込まれる人の断末魔が見えて、絶句していた。

遅い夕食を片付けながら、「テーブルコンロが出てきたから、ガスのカセットを買って来て」と、母はあっさりと言った。状況がわかっていない。私はまたひとつ、厄介な宿題を得たのだった。報道の合間に話した今日一日の町の様子は聞き流されていたのだ。

あと二日。青色申告の宿題の追い込み。停電するなよと手元灯に語りかけつつ、突貫工事をしていたのだった。会計事務屋はぜったいに嫌だといっても、しかたない。山のような医療控除用の領収書をやっつけ袋詰めして、峠を越したのだった。

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「買物難民」素読会。結局ひとりの協力者が脱落し、明け方、勝手に第三章突入。


(校正1回目済み)

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