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☆吉本ばなな「N・P」感想

2006年06月01日 22時09分13秒 | 文学
N・P吉本ばななの「N・P」を読んだ。
やはりあまり面白くなかった。
会話文で誰が話しているのかよく判らないところがあった。誰が話してもあまり変わらない、という雰囲気でもあった。
萃(すい)という名前の女の子が出てくるが、柴門ふみの漫画「東京ラブストーリー」の赤名リカみたいな感じだった。
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☆”フォニイ”とは何か

2006年06月01日 00時31分29秒 | 文学
江藤淳の対談集「文学の現在」(河出書房新社・1989年)の残りのふたつを読んだ。
中上健次との対談では、三島由紀夫、大江健三郎、柄谷行人のことを話題にしていた。中上健次の結婚式の仲人は柄谷夫妻がやったらしい。それについて中上が文句を言っていた。仲人をやらしておいて文句を言わなくてもいいじゃない、っていう気がした。
富岡多恵子との対談もあんまり面白くなかった。

同じく図書館で借りていた江藤淳の「リアリズムの源流」(河出書房新社・1989年)は、短文が寄せ集めてある本で、森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、中野重治、芥川龍之介、菊池寛、正宗白鳥、太宰治、三島由紀夫、武田泰淳などについて書いてある、らしい。目次に書いてあります。
江藤淳が太宰治について書いてあるのを読んだことがなかったのでそこを読んだけど、予想通りというか、あまり太宰治はお気に入りではないみたいだった。
それと「”フォニイ”考」と題する短文があったのでこれも読んだ。「フォニイ」というのは「空っぽでみせかけだけの。インチキの、もっともらしい」という意味らしい。ご丁寧に例文まで載っていた。
「辻邦生、加賀乙彦、小川国夫、丸谷才一は”空っぽでみせかけだけで、インチキでもっともらしい”」
と言いたいときに、
「彼らは”フォニイ”である」
と言うらしい。
「内に燃えさかる真の火を持たぬままに文を書き詩を作る人間」が”フォニイ”らしいですよ。リアルの反対とも書いてあった。

江藤淳の「フォニイ」は蓮實重彦の「凡庸」ほどは流行らなかったんだろうなあ。どちらかといえば、江藤淳が多用する「いうまでもなく、」のほうが僕にとってはヒットであることは、いうまでもない。「昭和の文人」を読みながらずっと思っていたが、江藤淳は「いうまでもない」ことを言い続けている。それが僕にある哀しみをもたらしたことは、いうまでもない。
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