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遠藤周作『死海のほとり』

2016年05月30日 20時30分24秒 | 文学
遠藤周作『死海のほとり』(新潮文庫)を読んだ。
没後二十年ということで遠藤周作を読み返してみたが、やはり時代遅れという感じが強い。この小説は以前読んだときには最もおもしろかったように記憶していたが、今回読んでみるとおもしろくなかった。
遠藤周作が、「私たちはみんな弱虫なので」と話を進めていくところが多くあり、そこでいちいち引っかかりを感じる。案外そういうところがいちばん読めない原因かもしれない。あなたといっしょにしないで欲しい、と感じてしまう。わたしが弱虫ではないとは言わないが、そのようにひとくくりに(私も含めてすべての日本人を)してしまうことに違和感を感じる。
キリスト教を認めない登場人物たちが、キリスト教の論理に則って考えるところも違和感を覚える。遠藤周作にはキリスト教を信じないひとたちが、どのようにキリスト教を信じていないのかが理解できないのではないかと思う。
キリスト教を信じていないひとたちはキリスト教を理解して否定しているわけではない。キリスト教にそもそも興味がないから理解していないし理解しようとも思わない。キリスト教的な問題に出会ったことがない。
いろいろなことに違和感を感じるが、遠藤周作が一時期は人気作家であったこともあり、時代の流れを感じる。この感じは松本清張に感じるものに似ている。
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須賀敦子『ヴェネツィアの宿』

2016年05月22日 23時29分45秒 | 文学
須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』(河出文庫『須賀敦子全集 第2巻』所収)を読んだ。
いっぺんに須賀敦子のファンになってしまった。
なんでもない思い出話を書いているようですごく惹き込まれる。

この前吉本隆明の講演集を読んでいたときに、筒井康隆の書くエンターテイメントは物語のパターンをどんどん新しいものを出してきてすごいが、描かれる人間が単純だというような話があった。
出てくる人間がものすごく悪い人間だったり、ものすごく良い人間だったり、良いと見せかけて実は悪い人間だったり、そういうひとたちの集まりの物語を読んでいると、飽きるし不満を覚えて、疲れてしまう。ああ、またあれかと思って、物語を追いかけるのが面倒くさくなってくる。
是枝裕和の映画が長くても疲れないのは、そのような単純に悪い人や単純に良い人が出て来ないし、単純に不幸な出来事や単純に悪人が成敗されるような出来事が起きないからだと思う。
須賀敦子の本も同じだと思う。
文章が上手。
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是枝裕和監督『海街diary』

2016年05月22日 00時41分08秒 | 映画
是枝裕和監督の『海街diary』がテレビで放送していたので見た。
死んだ父親の姿が写真すら出て来ないところが岩井俊二の『Love Letter』を思い出した。『Love Letter』でも死んだ恋人の現在の姿は出て来ない。
また葬式に始まり葬式に終わるところも日本映画の伝統をふまえているなと思った。
日本映画で葬式が出てくると安心する。火葬場の煙突の煙を描くところなどは伊丹十三の『お葬式』だなと思った。
小津安二郎の『秋日和』もそうだけれど、法事の場面のある映画は好きな映画になることが多い。

台詞の特徴としては「アレ」という言葉が頻出する。
確かに普通の会話では「アレ」ってよく言ってしまっているような気がするが、あまりに映画のなかで見せられるとちょっと脚本家の考えていることが見え過ぎてしまうのではないかと思った。

大きな事件が起きるわけではなく(風吹ジュンの死すら描かない)、ゆっくりと時間を共有して、自分もこの家にいっしょにしばらくでもいられたらいいだろうなと感じられて、とっても良い映画だと思った。
広瀬すずの相手役の男の子のまえだまえだの弟が、もうちょっと格好良かったらいいのではないかと思ったが、あまりそこに幻想を入れないのも是枝裕和の趣味なのかもしれない。
リリー・フランキーはいいおじさんのように描かれるのだが、僕には最初から広瀬すずのことを狙っている怪しいおじさんのように見えて仕方がなかった。「すず危ない!」とずっと思って気が気じゃなかった。そのように描くつもりじゃないのならあそこはリリー・フランキーじゃないほうが良かったのではないか。
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吉本隆明『吉本隆明〈未収録〉講演集第12巻 芸術言語論』

2016年05月19日 21時38分54秒 | 文学
本屋で少し立ち読みしておもしろそうだったので、『吉本隆明〈未収録〉講演集第12巻 芸術言語論』を図書館で借りてきて気になるところを読んだ。
「戦後文学の発生」というのと、「現代文学の条件」というのをわりときちんと読んだ。
このころの、80年代とか90年代の文学は若手で村上龍や村上春樹がいたり、エンターテイメントで筒井康隆や栗本薫がいたり、老大家と呼ばれるような人たちがいたりして、そして吉本隆明も純文学だけではなく通俗的な文学にも目を配ったりしていて、とても幸せな時代だったなと思う。
いま、このような吉本隆明のような立ち位置で文学を語っていて、そして一応読者もいて、というような人がなかなか思い浮かばない。
加藤典洋と内田樹が候補には挙がるだろうが、時代の情況を捉えた文学作品をきちんと「マリ・クレール」のような雑誌で書評するようなことはしていない(と思う)。時代の情況を捉えた文学作品というものがそもそも思い浮かばない。それは、そのような文学作品がいまないのか、あるけれどもそのような切り口で書評されていないのか僕は知らない。実はこれまで文学作品であると認識されていないようなものが実は時代を捉えた深い作品であるというようなことは、吉本隆明がよくやっていたことなのだと思う。

「現代文学の条件」では登場人物と語り手と作者と、そして読者について語っていて、そして私小説について語っていて興味深く読んだ。
いま須賀敦子の本を読んでいるが、とてもおもしろく読んでいる。エッセイのように書かれながら、実際にエッセイなのだろうが、私小説のように読める。てとも上手い。
「現代文学の条件」を読んで最も読みたくなったのは、宇野千代の「何事も起こらなかった」だった。宇野千代は読んだことがない。
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中村真一郎『芥川龍之介の世界』

2016年05月15日 01時07分49秒 | 文学
中村真一郎『芥川龍之介の世界』(岩波現代文庫)を読んだ。
もう少し芥川龍之介への興味が持続するかと思ったが、短編集を二つ読んだ時点でもういいやと思ってしまったので、この本への興味も薄れてしまった。
なにゆえに芥川龍之介に興味を持ったかと言えば遠藤周作を読んでいて、遠藤周作は芥川龍之介→堀辰雄の系譜にあるということを読んで、それでは切支丹物もあることだしと思い読み始めた。
しかしオセロで両端を挟まれてすべての駒がひっくり返されるように、僕の遠藤周作、堀辰雄、芥川龍之介、中村真一郎、キリスト教、への興味が一気にパタパタと失われてしまった。
なぜそうなったかというといま少し仕事が忙しいからかもしれない。
仕事が忙しいと芥川龍之介への興味が失われる。普通のサラリーマンが晩年の芥川龍之介の短編を読んでもあまり得る物がないように思う。ではなんだったら得る物があるのかと言われてもよくわからない。
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蓮實重彦には意外にもユーモアがあったこと。

2016年05月10日 00時06分31秒 | 文学
内田樹の『困難な成熟』に書かれてあった内田樹の悪口を延々とエッセイに書いた「ある高名なフランス文学者」というのはやはり蓮實重彦のようなので、蓮實重彦の『随想』(新潮社)を図書館で借りて読んでみる。
最初の、ル・クレジオのノーベル文学賞受賞に際しての文章がそれにあたり、村上春樹の話になり、内田樹の話になる。
おもしろい。
蓮實重彦ってこんなにユーモアがあり、読みやすかったっけ、と意外に思う。
《このブログの書き手は、自分がいくらでもすげ替えのきく便利な人材の一人であることを隠そうとする気すらない》(23頁)
というようなことを蓮實重彦は書くがこれは内田樹が『街場の文体論』などで、若い人に対して、誰でも言いそうなことをネットで発言することでその人は自分の独自性を失い、誰とでも交換可能な人間になる。ひいては生きる気持ちが失われていく、というようなことを言うことに対する批判なのだろうか。
私がユーモアがあると思ったのはそのようなところではなくて、端的には「やれやれ」を多用しているところに対してそう思った。
内田樹のところだけ確認しようと思っていたのだが、おもしろくて三つ目まで読んだ。最後まで読むことになるかもしれない。
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内田樹『街場の文体論』

2016年05月08日 21時03分41秒 | 文学
内田樹『街場の文体論』(文春文庫)を読んだ。
何年か前にこの本の単行本が出たときに、この本はおもしろそうだし大切なことが書かれていそうだから図書館で借りて読まずに文庫になってから買って読もう、と思った。
なので文庫になったので読んでみた。
まあまあおもしろかったが、正直に言うと僕は内田樹を尊敬しつつも少し飽きているのでそこまで強烈な印象をこの本から受けることはなかった。文章教室のようなものを期待していたのだが、「いつもの話」だった。
特に内田樹の語る村上春樹の話に飽きている。何かと言うと村上春樹が登場し村上春樹が無謬の人のようになっている。
村上春樹の話を一度もしないで今後は語って欲しい(と勝手な希望を持つ)。
しかしそのようなことを期待してももちろん意味がないので、しばらくこれまで気にはなりながら読まなかった本を読んでみることにする。
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『トットてれび』と『私結婚できないんじゃなくて、しないんです』

2016年05月07日 23時55分17秒 | テレビ
いま毎週見ているテレビドラマはふたつ。
『トットてれび』と『私結婚できないんじゃなくて、しないんです』を見ている。
『トットてれび』は黒柳徹子に相変わらずの興味を持っていることと主演の満島ひかりが大好きなので見ている。時間が短く、三十分程度というのも良い。時間が短いせいか結構適当に描かれていて、当時のテレビ放送についてなんとなくしかわからない。一時間十五分とかの放送時間にするともっと詳しく描かれるのだろうが、あんまり詳しくやられると疲れて退屈するだろうからいまくらいがちょうど良いと思う。「みなさん徹子さんのお話はもう何度も聞いているでしょうから適当にサワリだけやります。あの場面です。」みたいに描かれる。
これから向田邦子が死んだり、坂本九が死んだり、渥美清が死んだり、するんだなあ。
『私結婚できないんじゃなくて、しないんです』はもう見るのをやめようと思いながら第四話を見た。
しかしなんとなく引っ張られて、やはり次週も見ようという気になってしまった。毎回ワンパターンなのだが、馬鹿馬鹿しいので見てしまう。
中谷美紀を見るドラマだと思う。
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芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』

2016年05月06日 21時22分32秒 | 文学
芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫)を読んだ。
芥川龍之介の晩年の作品集。
この間娘を連れて遊びに行って、公園のそばにあった住宅展示場の一軒家に入ってやはり一軒家は広くていいなと思ったのだがそのときに、文学全集の本が何冊か置かれていて(文学全集って読むためよりも家のインテリアに置かれていることのほうが多いと思う)、その一冊を手に取ってみたら志賀直哉集で『暗夜行路』が載っていた。ひさしぶりに『暗夜行路』を読んだらおもしろいかもしれないと思った。もう一冊見たらそれは川端康成集だった。
そのあと家で芥川龍之介の「歯車」を読んでいたら『暗夜行路』が出てきた。
芥川龍之介の姉の夫が自宅に火事を出して保険金詐欺で疑われていたという話が何度か出てきたように思うが、今日火事を見た。
このような、読んでいる本と僕の生活が結びつくようなことは案外よくあるのだが、それをたまたまで片付けられない心理を「歯車」とかのこのころの芥川の作品は描いているのだと思う。「歯車」ではレエン・コオトが何度も登場する。
どの作品もこのころの芥川龍之介の心理状態を考慮したりこのあと自殺することを考えたりしなければそんなにおもしろいものではない(「羅生門」とか「藪の中」とかのほうがおもしろいと思う)。学生時代の僕は作家が自殺することについて重大な意味があると思い込んでいたのだが、今読むと「考え過ぎ」とか「文学のやり過ぎ」とかそんな言葉が思い浮かんでしまう。
三十五歳で自殺するとかダメだよ、と後輩の葬式に出席したような感想を持ってしまう。もう僕は四十代なのだ。
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ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ』

2016年05月06日 01時00分48秒 | 映画
録画していたガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ』を見た。
シャーロック・ホームズがアクション映画になっていておもしろかった。続編も見てみたいと思う。
オカルトの雰囲気の話で、最後はきちんと科学的に解明されるという話だったが、そこまできちんと解明しなくてもいいのになと思った。
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