ダブログ宣言!

ひとりでするのがブログなら、
ふたりでするのがダブログ。

☆村上春樹「1Q84」BOOK1

2009年05月31日 18時21分57秒 | 文学
1Q84(1)村上春樹の「1Q84」(新潮社)のBOOK1を読んだ。”BOOK1”というのは僕が格好つけて言っているわけじゃなくて、そう書いてあるのです。
村上春樹がなぜこの、ふたつの物語が交互に描かれる形式に拘るのかがあまりよく理解できない。村上春樹的に言えば、「よくわからないな」。
ずっと、この形式はフォークナーの「野生の棕櫚」から取られたのかと思っていたのだけれど、ついこの間ディケンズの「荒涼館」も同じようなことをしていることをある本(廣野由美子「ミステリーの人間学」岩波新書)をたまたま立ち読みしていて知る。
そういえば村上春樹の「東京奇譚集」でもディケンズの「荒涼館」を読む場面があった。
「荒涼館」はいつか新訳が出たら読もうと思う。

「1Q84」はそれにしても長い。つかれた。
半分読んだ時点の感想としては、つまらないことはないが、ものすごくおもしろいというほどではない。
リトル・ピープルというのはTVピープルみたいなものだろうか。ちょっと懐かしい。
「海辺のカフカ」を読んだ時に、佐伯さんが書いているのはナカタさんの物語ではないかと思ったことがあったのだが、「1Q84」でも天吾は青豆の物語を書いているのだろう。
だから、青豆の物語ではより非現実的なことが書かれるのだろう。
天吾の書いている長編小説には「1Q84」というタイトルが付けられると予想される。
青豆の初恋の相手が、青豆の物語を書いている天吾であることや、天吾の身辺に起きている出来事が青豆の物語に反映されることなど、作家とその小説の関係を考えさせる小説だ。
あまり最近の小説は読まないのに新興宗教の話によく出会う。
コメント

☆平井堅、Woman、1984年、村上春樹

2009年05月30日 20時57分13秒 | 文学
先週の期待通り、「僕らの音楽」で平井堅が「Woman ”Wの悲劇”より」(1984年の歌)を歌う。
なかなか良かった。
平井堅には是非とも昭和の歌謡曲を歌い続けて欲しいものだと思う。
そういえば、村上春樹が政治についてどう考えているかを知りたく思い、音楽エッセイ集「意味がなければスイングはない」を立ち読みしていたら(まさしく、木に縁りて魚を求む、なのだけれど)、そこに日本のJポップは歌謡曲にリズムをつけたものに過ぎない、だから興味がない、という村上春樹の厳しい言葉があった。
村上春樹は日本の歌謡曲が(そしておそらく日本のホームドラマも)、嫌いなのだなあ。
何かが良いとしたり、何かを悪いとしたり、という判断はとても個人的なところに最後の拠り所があると思う。そしてそれは絶対に譲れない。譲ると自分じゃなくなってしまう気がする。
で、僕は、歌謡曲を聴いた時の懐かしさはいまの自分の、大切にしたいところだ。

(1984年の歌、そして村上春樹、と上手くつながったところで、)村上春樹の「1Q84」を読んでいる。
いまは上巻の、122ページ。
「必殺仕事人」? 「隠し剣 鬼の爪」?
綿矢りさのこと?
村上龍の「五分後の世界」みたいになるのかな?
など、いろいろな疑問が浮かぶ。
コメント

☆そもそもテレビというものは

2009年05月28日 23時31分53秒 | テレビ
ふとしたことから「そもそも」が僕の口癖であることに気付く。
僕は結構「そもそも」と言っているような気がする。
何かを説明しようとしはじめるときや何かを質問しようとするときに「そもそも」で始めることがもしかしたら極めて多いのかもしれない。
そもそも僕が「そもそも」と言いはじめるのには始めるなりの、無意識のなにかが働いているような気がする。たぶん、良く言えば、ものごとの成り立ちの根源を知りたいといったような、ことだと思う。
気になってこのブログの検索機能で「そもそも」とひっかけたらやはり結構書いていた。
気にすると何も言えなくなるか、不自然な日本語になりそうなのであまり意識しないようにしたい。

最近ねむくてあまり本を読めず、テレビをよく見ている。
昨日は久米宏の「クメピポ!」。ゲストが田原総一朗なので見たのだが、予想した通りつまらない番組だった。もうこの番組はだめなのだろう。
そのあとNHKの「SONGS」を録画していたので見る。平井堅が「瞳はダイアモンド」を歌う。平井堅はわりと好きだ。
今日は天海祐希の「BOSS」を見ていた。
このドラマは面白いと思う回とそうでもない回が交互に訪れる。今回はそうでもない回だった。
コメント

☆ひさしぶりの演劇鑑賞

2009年05月27日 00時34分56秒 | 舞台
今日は演劇鑑賞。
ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出の「神様とその他の変種」を見に行った。
ケラリーノ・サンドロヴィッチの芝居はテレビではいくつか見たことがあるのだが、実際に見るのは初めて。
彼の芝居では、タイトルや出演者、そのほかちょっとした時間経過(「あれから三年経ちました」みたいな)とかが映像で流れるをよく見るのだが、あれはテレビだからそういう編集になっているのかと思っていたけれど、きちんと舞台上に映像が流れた。
うまく作っているな、と感心した。映画みたいだった。
テレビで見るのとはやはりちがう。

ちょうどこの間村上春樹の「ノルウェイの森」を読んでいて、語り手が動けなくなった病床の男(緑の父親)に、ギリシャ悲劇について語る場面があった。
ごちゃごちゃになってしまった人間関係を最後に神が現れて交通整理をする「デウス・エクス・マキナ」について語っていたのだが、今回の演劇も最後にラジカセを持った神様が現れて交通整理をしようとする場面があり、「おお、デウス・エクス・マキナ!」と思った。
とてもおもしろい舞台でした。

お酒を飲んで帰宅。
コメント

☆クリント・イーストウッド監督「ブラッド・ワーク」感想

2009年05月24日 23時36分10秒 | 映画
冷蔵庫に残っていたサラミをそろそろ食べないといけないので、コンビニで酒を買ってきて昼間から飲む。あまり家で酒を飲むことはないのでこのようなことはめったにない。
そのあと昼寝。

NHKの大河ドラマ「天地人」は先々週の、本能寺の変あたりから面白くなったように思う。
石田三成(小栗旬)はなかなか他人に心が開けない。
最近、他人にうまく心を開けるということが生きていく上でもっとも大切なことなんじゃないかと思っている。
小栗旬のことを藤原竜也だと思っている人が大河ドラマ視聴者のなかにはかなりの数でいるのではないかと思う。

ブラッド・ワーク 特別版クリント・イーストウッドの「ブラッド・ワーク」をかなり以前に録画していたので見た。
特に何ということもない、普通のサスペンス映画だった。
もっと「グラン・トリノ」っぽいものを期待したのだが、期待外れ。
しかし退屈することのない映画ではあった。
コメント

☆ハンナ・アレントのソクラテス

2009年05月24日 00時46分12秒 | 文学
ハンナ・アレント「政治の約束」(筑摩書房)を図書館で借りて読んでいる。
「第一章 ソクラテス」を読んだ。
「責任と判断」という同じような装丁の本でもソクラテスについては書かれていて、そのときも思ったのだが、ハンナ・アレントはソクラテスとプラトンを明確に分けて考えている。
ソクラテスは真理を意識してなくて、プラトンは真理を意識した考えをしている、らしい。
ものを考えるときに本当はこうすべきだけれど、実際はそうはいかないからこうするのが現実的かな、という考え方はよくするのだけれど、そのときの「本当はこうすべき」というのが真理で、そういう考え方をソクラテスはしなかった。答えを持って、対話に臨むことをしなかった。
最終的な答えを知っている(と思う)ことで、現実的な政治に意見ができなくなる、距離を置いて自分とは関係ないものとしてしまう、ということがプラトン以降の哲学者に起こった、というような話だった。
ものごとには真理が存在していて、わたしたちのすべきなのはそこにできるだけ近づくこと、という考え方をしないで、現実から出発して考えていくことは大切なことだと思う。
小熊英二の「<民主>と<愛国>」(新曜社)を読んだ時に、江藤淳の考えがものすごく、個人的な生い立ちに由来する、彼本人の偏見に満ちたものだったという印象を持った。で、あとから見てみればどのようなひとの考えも個人的なところからしか出発出来てなくてある程度そこに留まってしまっているという印象を受けるのだが、結局そうしかできないし、そうすべきなんだろう。

最近あまり小説を読んでいなかったのだけれど、村上春樹を読んでとてもおもしろく、小説の読み方というものがやっとなんとなく理解できそうな気がしているので、しばらく読んでみようと思っている。
いまのところ、カミュとサルトル、それとフラナリー・オコナーを読もうと思っている。
コメント

☆村上春樹「スプートニクの恋人」感想

2009年05月23日 02時54分34秒 | 文学
テレビ番組「僕らの音楽」で、徳永英明と叶美香(妹)が対談していて「へんな組合せ!」と思い、チャンネルをそのままにしておく。徳永英明の新曲「砂時計」はなんとなく懐かしくてよい。(YouTube
もう何年も前から、歌には懐かしさしか求めていない。
来週の出演は平井堅と薬師丸ひろ子で、どちらにも興味があるので録画予約をする。
平井堅は「Woman ”Wの悲劇”より」を歌うべきだと思う。歌ってほしいものだ。

スプートニクの恋人村上春樹「スプートニクの恋人」読了。
最後にすみれが電話ボックスから電話をかけてきて、語り手に「今どこにいる?」と訊かれるところはそのまま「ノルウェイの森」だと思った。全体的に「ノルウェイの森」っぽいところが多い。
さてこの小説でよくわからなくて印象に残るのは(前回読んだときもそうだったのだけれど)、ミュウが観覧車から自分の部屋を双眼鏡で眺めると、そこには自分がいて男と性行為をしている。そして(こちら側の、観覧車から眺めていた)ミュウの髪の毛が真っ白になる、というところだ。
今回読んでみてこの場面が、ミュウから聞いた話をすみれが書き残した文章で、それを語り手が読んでいる、というわりと複雑な設定になっていることを知る。まったくそんなことは忘れていた。
それが分かったところで何かが分かるわけでもないけれど、少し思ったのは、物語が他人に与える影響というようなことを思った。ひとから聞いた話は聞いた人間のなかに根付き、そのひとに影響を与える。たとえば、村上春樹の小説を読むと、その影響を受ける。それが育つ。
そんなようなことってあるな、と。
村上春樹の、向こう側に行った、とか、こちら側に帰ってきた、とかいう表現は単なる詩的なレトリックなんだろうか、何か本気で考えるに値するような思想なのだろうかと、ちょっと考えた。単なる詩的なレトリックであればそれで良くて「ああ、そんなもんか。また例のあれか」で済ましておけばよいのだけれど、何かそこには深い思想のようなものがあるのだろうか。
あるなら放っておけない。
しかしいまのところ、向こう側に行くという表現で僕にとって引っかかるものがない。

にんじんと呼ばれる少年の万引き事件の場面はとてもうまく描かれていると思う。
少年はこんがらがった観念の泥沼を生きている。それをほぐして、ひとにも見せることができるようになるには結構な時間がかかる。
と思う。
コメント

☆「福翁自伝」と「スプートニクの恋人」

2009年05月22日 00時49分44秒 | 文学
僕がいま読んでいるのは福沢諭吉の「福翁自伝」と村上春樹の「スプートニクの恋人」。
「福翁自伝」はそろそろ明治維新について諭吉が語り始めたところ。明治維新は1945年の敗戦とともに、僕をものすごく興奮させる出来事だ(笑)。
「福翁自伝」は福沢諭吉の他の本にくらべてとても読みやすい。「文明論之概略」はとても読みにくい本だった。

村上春樹「スプートニクの恋人」は二回目。「ノルウェイの森」につづき村上春樹を読む。以下、メモ。
・タイトルは「ビートニク」と「スプートニク」の勘違いから。「スプートニク」はロシア語で「旅の連れ」。
・”」、”(閉じ括弧+読点)をよく使っているが、このような使い方は「ノルウェイの森」にはなかったように思う。
・夜中に意識がなくなっているすみれは「ノルウェイの森」の直子とだぶる。すみれと抱き合うミュウもレイコさんとだぶる。
夜中に意識のなくなっている女は村上春樹によく登場する。
・《Kの言うフィクション=トランスミッション説》(193ページ)。Kって誰だ? これまで登場したのだろうか。
・《『ロシアより愛をこめて』に出てきたロッテ・レーニャみたいに見えるよ。》(196ページ)。「ロシアより愛をこめて」要確認!
《わたしの名前はボンド、ジェームズ・ボンド。》(196ページ)。もしかして「フォレスト・ガンプ」って007のものまねだったのか! それとも英米ではみんなこのような自己紹介なのか。
・やはり村上春樹の意図が読めない。そのせいかとても時間がかかる。
コメント

☆自由への道

2009年05月20日 21時45分45秒 | 文学
前回クリント・イーストウッドが唾を吐く映画を「ペイルライダー」と書いたが、気になって調べてみると「アウトロー」のようだ。
ぜんぜん記憶違いをしていた。
それどころか僕は「アウトロー」を見た記憶がないのだけれど、いつのまに見たのだろう。
わざわざ借りてみるほどではないので、テレビで放送することがあれば録画して確認してみることにしたい。

岩波文庫が来月からサルトルの「自由への道」の新訳を出すようだけれど、非常に気になっている。
文学史でしか知ることのない、忘れ去られいまでは誰も読まなくなった小説にはいつでも心惹かれる。
あと、マルクスブームなのかどうか知らないけど、マルクス関連の本がやたらと最近目につく。「資本論」の新訳の文庫本の発売を心待ちにしている。
コメント

☆クリント・イーストウッド監督「グラン・トリノ」を見てきました。

2009年05月17日 22時18分15秒 | 映画
公開中の映画では「スラムドッグ$ミリオネア」に最も注目していて見に行こうかと思っていたのだが、前に勤めていた会社の映画好きの友人から「グラン・トリノ」がおすすめと突然メールが届いたので、クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」を見てきた。
クリント・イーストウッドの映画はわりと見ていて、なかでも好きなのは「許されざる者」と「パーフェクト・ワールド」と「マディソン郡の橋」。
で、「グラン・トリノ」はこの三作品に並ぶほど好きかというとそこまでではないのだけれど、とてもよく出来たいい映画だと思った。泣いたか泣いてないかと言えば泣いてないのだが、調子がよければ泣いていた映画だと思う。ひとりで見に行ってたし。
男の子を育てる話はわりと好きです。
そして頑固で口の悪い男の話も相当好きです。
クリント・イーストウッドが唾を吐くのは、僕の記憶が確かならば「ペイルライダー」と同じじゃないかなあ。
そして「ペイルライダー」と同じように、キリスト教的な話だった。「キリスト教的な話」と、よく分からないのでひと括りで語ってしまうのだが、僕には理解できてないところでもっとキリスト教的だったり、過去のイーストウッド作品からの引用があったりするのだろう。
過去のクリント・イーストウッド作品を見直したくなった。
コメント