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☆堀辰雄覚書(「風立ちぬ」)

2006年05月31日 00時06分32秒 | 文学
江藤淳の対談集「文学の現在」を図書館で借りて少し読む。
この本は、
「今、言葉は生きているか」(中上健次・1987年12月3日)
「批評はいかにあるべきか」(富岡多恵子・1988年3月11日)
「ポスト・モダンと近代以前」(川村湊・1988年6月17日)
「文学と非文学の倫理」(吉本隆明・1988年9月8日)
の4つの対談からなっている。
後ろから順番に読んで、2つ読んだ。
吉本隆明との対談はおもしろかった。江藤淳は村上春樹のものをまるっきり読んでいないのだとばかり思っていたが、この対談を読む限り、「ノルウェイの森」は読んでいないが他のは読んでいる、のではないかと思った。まあどちらでもいいことだが。江藤淳の「昭和の文人」を吉本隆明が褒めていた。
最近は倫理をなんにでも付けたがって、なんでもかんでも良い悪いを言いたがるというところに納得。
川村湊との対談で、江藤淳が高橋源一郎の「優雅で感傷的な日本野球」を評価しているのを知った。ふうん。

一昨日くらいからちょっとずつ堀辰雄を読んでいる。
「ルウベンスの偽画」と「風立ちぬ」を読んだ。
「ルウベンスの偽画」は何のことかよくわからなかったが、「風立ちぬ」は予想に反して相当おもしろかった。

女は黙っているのがいちばん良い。
結婚してしばらくするとこういう感想をもつ人がいるんじゃないかと思う。結婚ってわりとめんどくさいことも多いですから。お互いに。
その、黙ってる女、めんどくさいことは何ひとつ言わない女、何でも理解してくれていると男に思わせてくれる女、を描いたのが「風立ちぬ」だと思う。
世界としては、妻子なんか放っておいてイルカとともに深い深い海の底に沈みたいという欲望を描いた、リュック・ベッソンの映画「グラン・ブルー」に近いと思う。
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☆潔癖症

2006年05月30日 11時57分51秒 | 文学
自宅に本がないので調べられなかったんだけど、たしか加藤典洋が「ゆるやかな速度」「ホーロー質」「この時代の生き方」の三作のいずれかで、吉本ばななの「N・P」を「はじめての失敗作」のような表現を使って批評していたことがあったと思う。その「N・P」をいま読んでいる。
当時、吉本ばななの他の作品はすべて読んでいたのに「N・P」はなんとなく読まなかった。潔癖症というか、失敗したと言われるものを読みたくないというかそういう考えがあったと思う。最近はそんなのがだんだんなくなった。平気になった。年とった。
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☆江藤淳「昭和の文人」は傑作だと思う

2006年05月28日 23時58分52秒 | 文学
昭和の文人江藤淳の「昭和の文人」(新潮文庫)を読み終わった。相当面白くて興奮したけれど、この本がすでに絶版である理由もわかる。
「平野謙の韜晦、中野重治の転向、堀辰雄の変身」を題材にしている本なので、たぶんあまり興味を惹かれる人が少ない。だいたい「韜晦(とうかい)」って何? (「自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと」(大辞泉より)だそうです。)
その他にも基本的な点で意味のわからないところが三点あった。
まず一番目に。
中野重治の「甲乙丙丁」のなかで、文京区に地名が変わったことについて登場人物が語り合う引用に続いて、江藤自身も
「だが、あるいは、「文京区なんて馬鹿な名」の行政区域がつくられたことは、占領軍の検閲と同じくらい「残忍」なことであったかも知れない。」(183ページ)
と書いているけど、文京区がどうして馬鹿な名前なのか判らない。「文教」という言葉に由来していることが気に食わないんじゃないか、って妻が言ってましたけど。僕には何とも判断がつかない。
それから二番目に。
ほんとうに最後(329ページ)に、突然「”フォニイ”の作家」という言葉が出てきて面食らった。なんですかそれは。具体的に誰だろう。phony(にせの)ってことなんだろうけれど。
で、三番目に。
「しかし、中野重治が『五勺の酒』で提起した、その「あれ」の問題は、依然として残っている。」(329ページ)
と書かれる「あれ」について。
「中野重治が、『五勺の酒』の主人公に、「それはできぬことで、またしてはならぬことだ」といわせているその「あれ」について、私もここで何も言及しようとは思わない。」(327ページ)
とも直前に言われて気になるが、なんだか判らん。「五勺の酒」を最初から読んだら判るのかなあ。はっきり言えよって思うけど。
僕は「閉された言語空間」にいるのではっきり書いてくれないと判りません。

この本を読んで、平野謙の印象はもともと知らないから何ともないし、中野重治も別にたいして変わらないけど、堀辰雄の印象だけはめちゃめちゃ変わった。手塚治虫(または眞)みたいな顔した上品なおぼっちゃん、というだけの印象だったけれど、こいつはとんでもない男だっていう印象になった。養父への手紙はひどすぎる。威張りすぎだ。何様だ!
しかし、僕はひねくれているので、だから読むまいとは思わず、だから読みたいになってしまう。堀辰雄も機会があったら読んでみよう。
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☆フォレスト・カーター「リトル・トリー」感想

2006年05月27日 22時27分14秒 | 文学
リトル・トリーフォレスト・カーターの「リトル・トリー」を図書館で借りて読んだ。
吉本隆明の「心とは何か」を読んでから、読み始めたけど、吉本隆明が引用していたところは一番いいところだった。映画の宣伝みたいに先に最もいいところを見せられた感じだ。祖父母と無理やり別れさせられて孤児院で厳しい教育を受ける場面は、「アルプスの少女ハイジ」みたいだった。
「からだの心」と「魂の心」というのを分けてどんなに厳しい目にあっても「からだの心」を眠らせれば耐えられる、という思想や、木々や鳥たちの話すのが聞こえたり、星を見れば遠く離れていても意識が通じ合ったり、生まれ変わりを信じていたり、いかにもインディアンの思想という雰囲気なんだけど、実は作者はインディアンじゃない。作者の自伝ではないと思って読んでも、そこそこおもしろい話なんだろうとは思ったけれど、僕はそこが気になりすぎてあまり上手く読めなかった。
不幸な出会いをした、と思う。

知らないことについてはそれっぽく書かれれば、実質とは違っていてもころっと簡単に騙される。
グリム童話はグリム兄弟が農家の目の見えないおばあさんから話を聞いたというのが信じられていたけれど、ほんとうはわりとインテリの女性から聞いたんじゃないかということに最近なっているというのをどこかで読んだ。そんな婆さんいなかったってことになってるらしい。
ひとが信じたくなる物語ってある。
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☆気になっていること

2006年05月26日 10時19分54秒 | 文学
最近気になっていること。
宗教と江藤淳と「大菩薩峠」。
並べてみると、凄まじい。いったいおいくつですか、って訊ねられそう。

宗教は、「徒然草」と内田樹の影響。内田樹ほど思想に宗教的なものを感じさせる思想家は、吉本隆明を除いて日本にはいないと思う。と大袈裟に言っておこう。吉本隆明よりも宗教的な気がする。
その人にとって、ある思想が切実なものであるのだなと感じられる場合、どんな本でも興味深く読める気がする。逆にいうと、切実なものが感じられなければどんな本も読めない。
ある時期から村上龍に興味がなくなっていったのもそれが理由だと思う。

江藤淳の「昭和の文人」を読んでいる。
この本は新潮文庫で出たのに、あまり気にしてなかったらいつの間にか書店から消えていた。古本屋で見つけたときに慌てて買っておいた。今朝バスで読んだのは、中野重治の「五勺の酒」について書いてある部分。
この本を読んでいるのは作者と作品の関係について考えたかったから。
それにしても、江藤淳の全集はなんで出ないんだろう。丸谷才一の反対があるんだろうか。都知事の気が向かないのかなあ。自分では買わないが、図書館に置いといて欲しい本だ。
両村上(村上ショージと村上“ファンド”世彰ではなくて、村上龍と村上春樹)について本当はなんと言っているのか知りたい。吉本隆明との対談で何か言ってた記憶がある。
まあこの対談だけ読めたらそれでいいんだけども。でも全集出して欲しい。これを諒とせられよ。

加藤典洋が「webちくま」に連載している「21世紀を生きるために必要な考え方」によると、中里介山の時代小説「大菩薩峠」の後半、主人公の机竜之助がこたつに入って動かないらしい。単なる剣客ものだと思っていたのに。本当だったらこれはすごい。
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☆高山みなみの二役に驚く

2006年05月25日 00時57分23秒 | 映画
どうしてもフォレスト・カーターの「リトル・トリー」が読み進められない。
読みながらいろいろと考えすぎてしまうせいのような気がする。短編集みたいな雰囲気で、章と章のつながりがあまりないからかもしれない。単なる寝不足の可能性もある。
最近本を読みすぎた。
突然本が読めなくなることもある。

突然何かができなくなるという話を聞くと、いつも「魔女の宅急便」を思い出してしまう。条件反射のように。
この間、江原啓之の、霊感がしばらく落ちたという話を読んだときも思い出した。
「魔女の宅急便」で主人公のキキが突然魔法を使えなくなってしまう場面ってほんとうに好きだなあ。
何か大切なことを言っている気がしながら、何を言いたいのかはよく判らずにいる。たぶん、そんなこともあるよって宮崎駿は言いたいだけなのかもしれないが、僕としてはもっともっと深読みしたい。
今回調べて、キキと画家の友達ウルスラの声優が高山みなみの二役であることを初めて知った。迂闊としか言いようがない。なんと深い、深すぎる設定。
「ベッド取っちゃって悪いね」「いいよ」はひとりで言っていたのか!

最後にひとこと。
本は目で読むんじゃなくて、血で読むものだと思う。

ウルスラに「へえ、あたしそういうの好きよ」と言ってもらいたい。
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☆「A GIRL IN SUMMER」購入

2006年05月24日 09時48分06秒 | 音楽
A GIRL IN SUMMER滅多にCDを買うことはないけど、僕は自他ともに認めるにわかユーミンファンなので、松任谷由実の新作アルバム「A GIRL IN SUMMER」を購入した。
まだあまり聴いてないけど、ぱっと聴き(「ぱっと見」ではなく)、まあまあという感じです。
特に傑作ということもなく、まあまあの安心できる出来という感じ。
「Smile again」は松任谷由実のソロバージョンで、「松任谷由実 with Friends Of Love The Earth」バージョンのほうはシングル「虹の下のどしゃ降りで」じゃないと聴けないんだなあ。なかなか巧みな戦略。楽しみにしてたのに油断した。
今回のアルバムでは「Forgiveness」が好きだ。ハウスの「北海道シチュー」と「北海道チャウダー」のコマーシャルの曲。

コンサートまでこれを聴いて過ごそう。
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☆心はチェロキー気持ちは「・・・」

2006年05月23日 01時29分30秒 | 文学
とりあえず読んでみないことには話にならないということで、自称チェロキーのフォレスト・カーター作「リトル・トリー」(初版)を読んでいる。現在98ページ。
チェロキーというのはチョロQともチェルシーとも違って、「北米南東部のアラバマ山脈南端に住み、農耕と狩猟生活を営んでいた森林インディアン」(訳注より)だそうです。
作家が経歴を騙っても悪いことはないと思うので(たぶん)、問題は自伝として売ったことなんだろうなあ。
しかし本の後ろについている著者の写真は知っているからだろうけど、不自然だ。

作家と作品の関係ってなかなか深いものがありますなあ。
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☆吉本隆明「心とは何か」感想

2006年05月22日 00時48分08秒 | 文学
心とは何か―心的現象論入門図書館で借りた吉本隆明の「心とは何か 心的現象論入門」を読んだ。
この本を読んだのは、ルソーについて触れられていたから。ルソーは僕がいまエビちゃん(蛯原友里)と並んでもっとも注目している人物です。しかしエビちゃんの顔がいまだに憶えられない。
ルソーの「告白」を岩波文庫は早く復刊して欲しいとまた思った。

この本は講演集で、1975年から1993年の間のものがいろいろ入っている。最近のもののほうが読みやすいと思った。
子供の無意識は三歳くらいまでに形成されて、家庭内暴力が起こるのはその間の母親の愛情が足りなかったからだ、というふうな主張を(ものすごく簡単に乱暴に言ってしまうと)吉本隆明はしている。たしか「母型論」でも同じようなことを言っていたと思う。ずっと前に読んだので記憶が曖昧だけど。
たしかに母親との関係は乳幼児にとってものすごく重要だと思う。
子供の成長は、乳児期(0才から1才)、幼児期(2才から5才)、児童期(6才から10才)、思春期(11才から15才)と続いて、児童期は学校に入っている時期のことでこれは制度なのでいくらでも伸ばせて、そのあとの思春期で性的な経験をするのが遅くなっていく傾向にあるという話は納得した。(しかし僕の説明を読んでも誰も納得しないだろうと思う。すいません。きちんと書けません。)
それと、霊媒の話や身体障害の話から、<肉体としての身体>と<像としての身体>の違いの論も面白かった。

三木成夫が気になった。
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☆作者の像

2006年05月21日 14時55分13秒 | 文学
最近はインターネットで何でも調べてしまうことができるが、時にそれがいいんだか悪いんだかわからなくなるときもある。
いま読んでいる吉本隆明の本のなかに「リトル・トリー」という小説について書いてあって、「ここ半年でいちばん」というようなことが書いてあり、そこでの紹介を読んでもなかなか感動的だなと思った。「リトル・トリー」は本屋で並んでいるのは見たことはあったけれど、興味を惹かれなかったので何とも思っていなかった。
そこでちょっと調べてみた。これが失敗のはじまり。
「リトル・トリー」はアメリカインディアン出身の著者が自分の少年時代のころを回想して書いた話というふうに吉本隆明の本にも書いていたし、実際そう売られているわけだけれど、どうもそうではないらしい。(詳しくはこちら
小説を読んではないので、騙された、俺の感動を返せ! とかは思わないけれど、こういうことってたまにある。「一杯のかけそば」も似たようなことだったと思う。今回ウィキペディアを読んで「一杯のかけそば」が何で急に消えたのかがわかった。よく知らなかったんだよね。作者にかかわる事件が何かあったってことくらいは知っていたけれど。

加藤典洋が「テクストから遠く離れて」に書いていたことは本当だと思う。
本を読むと、読者は必ずその後ろに作者の像を結ぶ。それが現実の作者と合っているかどうかは関係ない。しかしどうしても本の後ろに作者をイメージしてしまう。
本を読むのはある意味、信頼関係でできているところがあると思う。お前の言うことは俺には判る、って思いながら読んでいるところはある。それが裏切られて自分のイメージしていたひとと現実の作者がまるっきり違ってたら、しかも本に書いてあることがまるっきり嘘だとわかったら、怒る人も出てくるもんなんだろうなあ。
例えば村上春樹が、パスタが大嫌いで料理も掃除もまるで駄目、スニーカーを流しで洗ったこともなければ、マラソンも水泳もしたことのない運動音痴、洋楽の知識はすべて人からの受け売り、とかだったら、あるいは太宰治がマッチョで声のでかい元気なおじさんだったとしたら、僕は結構失望するなあ。別にそうだからってこっちに怒る権利はないんだろうけど、騙された気がするのは確かだ。井伏鱒二の代表作が「山椒魚」も「ジョン万次郎漂流記」も全部盗作、「黒い雨」だって経緯が怪しい、みたいなことを猪瀬直樹の「ピカレスク」で読んだときは相当ショックだったもんなあ。あまり思い入れのない井伏鱒二でさえこうなんだから、好きな作家だったらショックだろうなあ。

「リトル・トリー」を読むかどうかは判らない。気が向いたら読むかもしれない。
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