![宮沢賢治―存在の祭りの中へ (岩波現代文庫―文芸)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41G8DHA5J7L.jpg)
見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫)を読んだ。
ずっと、「きれいはきたない、きたないはきれい」と言われているような感じで、はっきり言えばあまり身にならない話だなと思った。宮沢賢治は分かり難いので何とでも言える、と思った。批評はおのれの夢を懐疑的に語ること、なのだなと思った。
見田宗介は『銀河鉄道の夜』のカムパネルラは妹のとし子であるという前提で話をする。
《ここではマジェランの星雲は、賢治自身にとってのカムパネルラであったとし子が行ったと感じられるところであった。》(148頁)
そして、「おっかさんの問題」についても疑問を感じない。
《「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」カムパネルラがそのようにして早死してしまうことは、少なくともカムパネルラの母親にとって、ほんとうに〈ひどいこと〉である。》(154頁)
確かに、僕も菅原千恵子の『宮沢賢治の青春』を読んだときに、「おっかさんの問題」と言うほど問題だろうか、と感じた。
《二人は窓の外の景色の美しさに見とれ、ジョバンニの胸はほどよい興奮で高鳴るのだった。と、突然、「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか」というカムパネルラの発言に出くわす。作品の流れの中でみると、この箇所は、余りにも唐突であり物語の筋を追っている読者は、なぜ「おっかさん」の問題がここに突然挿入されているのか、理解に苦しむにちがいない。》(『宮沢賢治の青春』254頁)
とあるが、ここを読んだとき見田宗介のように、ここではもうカムパネルラは死んでいるのだからそれをおっかさんが「ゆるして下さるだろうか。」と思うのはそんなに不思議なことでもなかろうと感じた。理解に苦しまない。
《「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだらうか」と泣き出したいのをこらえて唐突に叫ぶカムパネルラの悲しみは、嘉内の悲しみでもあったはずだ。物語では後半、カンパネルラが母と死別していたことがはっきりする。カムパネルラと嘉内はこの点においてもぴったり重なる。》(『宮沢賢治の青春』256頁)
カンパネルラの母親が死んでいたということを知らなかったが、確認するとカムパネルラが姿を消す前に、
「あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」
と言って消えるので死んでいるのだろう。
まあそれでも、死んでいたとしても(死んでいるからこそ)、「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」と言って不思議でもないなと思う。これから逢うわけだし。
カムパネルラは妹のとし子であるというよりは、保阪嘉内なのだろうなとは思う。
「小岩井農場」を読もうと思い本屋で新潮文庫の『新編 宮沢賢治詩集』を見ると、「小岩井農場」が抜粋で載っている。全部載せろよと思い、購入しない。