![ガルシア=マルケス中短篇傑作選 (河出文庫)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/81DRQyPiqaL._SL1500_.jpg)
「大佐に手紙は来ない」
大佐と呼ばれる主人公が貧乏の中、ずっと軍人恩給がもらえる手紙を待つ。
軍鶏を売ろうかどうしようかずっと迷う。
よくわからない。
「火曜日のシエスタ」
泥棒として殺された親族の墓参り。
「ついにその日が」
麻酔なしで歯を抜く。
「この町に泥棒はいない」
ビリヤードの玉を盗んで、それを返しに行く話。
妻との関係を描くのが目的なのかな。
いまだにガルシア=マルケスのことが掴みきれないがちょっとおもしろかった。
「バルタサルの奇跡の午後」
誰もが欲しがる美しい鳥かごを作るが、少年にただであげる。
「巨大な翼をもつひどく年老いた男」
年老いた天使が現れ、そして去る。奇妙な話。おもしろい。
「この世で一番美しい水死者」
巨大な男の水死体に、エステバンと名前をつけて、名前はエステバンに違いないということになり、海に埋葬する。まったくよくわかりません。
「純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語」
少女に売春させる祖母の話。
少女を祖母から救おうとする少年がいて、そのあたりの話が非常に南米的に神話的にわかりにくく語られる。
「聖女」
腐らない娘の死体を持ち歩く父親。
「光は水に似る」
光の水の中でボートを漕ぐ兄弟。
![熊の敷石 (講談社文庫)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/61dBN0WNVjL._SL1153_.jpg)
私自身は習ってクロールが泳げるし、水が怖いという思いはこれまでしたことがないので、水泳の泳ぎ方に関する部分は少し読み飛ばしたところもある。文字で読んでもちょっとわかりにくいな、と私には思えたところもあった。
この本に出てくる桂コーチの言葉がすごく良くて、私も習ってみたい、というかお話を聞いてみたい気持ちにさせられた。
いま英語の勉強をしているのだが、それにも通じるものがあり感心させられた。
《つまり「私が泳ぐ」のではなく、泳ぐことになりきればよいのだ。》(161頁)
これは桂コーチの言葉ではないが、英語も「私が話す」などと思わず、英語になりきればよいのだ。
《泳げるか、泳げないかは自分で決めることです。たとえ1mでも自分で”泳げる”と言う人が”泳げる人”なんです》(173頁)
英語も、できる、と言う人が、できる人。
《それぞれの人に体の違いがあるわけですから、ひとつのやり方でみんなが泳げるはずがないんです。泳ぎに答えなんてない》(182頁)
英語もそう。
![おぱらばん (新潮文庫)](https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/818KbM0WE7L._SL1500_.jpg)
最初の表題作「おぱらばん」の、フランスにいる中国人がなぜだか「オパラバン」というフランス語をよく使い、それが彼らが使うフランス語の辞書のせいだという話が可笑しかった。そんなことはありそうに思う。
短編集だが、語り手は作者らしく思わせるように出来ていて、題材もほんとうに作者の身の回りで起こった出来事を題材に書かれているように思わせるように書いてある。なんでこんなふうに回りくどい言い方をするかと言えば、「ほんとうにそうなのかな」と何度か私が思ったからだ。
語り手の身の回りでなにかちょっとしたことが起きて、そういえばその後読んだ本にもこんな話があった、というふうにつながることが何度かあったように思うが、実はそれは逆で、何かの小説を読んで、その設定を使って自分の身辺にさも同じような出来事があったと創作し、話を作っているのではないかとも思った。
ほんとうのところはわからない。
特に前半、おもしろかった。