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☆「善き人のためのソナタ」感想

2009年04月30日 17時25分13秒 | 映画
善き人のためのソナタ スタンダード・エディションなんだか咽喉が痛い。風邪かもしれない。
ドイツ映画「善き人のためのソナタ」を見た。
川本三郎は「グッバイ、レーニン!」と比較して、この映画のほうを評価していたように思うが、僕は逆で「グッバイ、レーニン!」の方が好きだった。
東ドイツの超国家主義(丸山真男用語)ぶりがよく分かる映画だった。
もっと白状させるための拷問みたいなものが描かれるのかと思っていたが、そんなシーンはなかった。最近、人間の残虐さや愚かさを描いた映画や本ばかりで、いい加減そういうものを目にするのに疲れているので良かった。
一度も面と向かって会話をしたことのない相手だが、盗聴して話をよく聞いていたり、逆にその男の書いた文章を読んでいたり、の不思議な関係が描かれる。
そういう、文学的な設定は好きです。
まあそれにしても、いったい何のためだか分からない方向に国は進んでしまうことがあるものだ。
「管理する」ということだけが目的になってしまっている。

もっとソナタをがんがん聴かせて「どうだいい曲だろ」とやってくるのかと思ったら、一度だけさらっと聴かせるだけだった。
いいといえばいいのだが、クラシック音楽映画好きとしては物足りなかった。
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☆リチャード・アッテンボロー監督「ガンジー」

2009年04月30日 10時56分14秒 | 映画
ガンジー コレクターズ・エディションリチャード・アッテンボロー監督の「ガンジー」を見終わった。
イギリスから独立しても、イスラム教徒とヒンズー教徒の争いが起こる。
そういうもんなんですねぇ。
政治に関心を持つには貧困が不可欠なのではないかな、とも思った。
そんなとこです。
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☆連休も「ガンジー」も長い

2009年04月29日 19時52分27秒 | 映画
今日から連休。
会社を変わったので先月末もしばらく休んでいたのだが、今月もまたゴールデンウィークで休み。
休んでばっかりでスペイン人になりそう。
昨日は昼御飯を前の会社のひとと食べて、夜も前の会社のひと(昼とは別の人たち)と飲んだ。
話していて、世の中はほんとに不況だということを実感する。
その他、昨日知ったのは、
・SMAPの草剛の事件について、世間では概ね草に同情しているということ。
・僕の全く注目していなかったテレビドラマ「ラブシャッフル」が意外にもおもしろかったということ。
など。

今朝から何度かに分けてリチャード・アッテンボロー監督の「ガンジー」を見ているが、なかなか見終われない。
おもしろくないこともないが、長い。
インド人が集会を開いているところをイギリス人の警官隊がピストルで撃ちまくるシーンが必要以上に長かった。(必要か、不必要か、そんなことは分からない。つまり、「必要以上」と感じさせる程度の長さだったということ。)
痛ましい場面だった。
いろいろとひどいことが世界ではこれまで行われてきたのだなあ。
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☆内田樹ほか「9条どうでしょう」

2009年04月26日 19時59分58秒 | 文学
9条どうでしょう丸山真男の「後衛の位置から」(未来社)という本に「憲法第九条をめぐる若干の考察」というエッセイが入っていたのでそれを読んで、そういえば内田樹も九条について書いていたなと思いだし「9条どうでしょう」(毎日新聞社)を図書館で借りてくる。
内田樹のまえがき「「虎の尾アフォーダンス」と「脱臼性の言葉」」、同じく内田樹の「憲法がこのままで何か問題でも?」、それと町山智浩の「改憲したら僕と一緒に兵隊になろう」までをなんとか読み、小田嶋隆のサッカーの話で興味を失ってしまい、平川克美のものは全く読まなかった。
やはり内田樹は力のある書き手だなあということを再認識したのでした。(単純に読みなれているだけ、かもしれませんけどね。)
しかし、この本の出た当時(2006年)の改憲論争はどうなってしまったのだろうか。ほんとうに世の中は気分で動いているものだということがよく分かる。もう誰も改憲のことなんか言っていない。

憲法第九条について、丸山真男、内田樹、町山智浩に共通しているのは、(丸山真男的に言えば、)九条というのは「である」ことではなくて「する」ことなのだという感覚だ。
現状のことを語っているのが憲法ではなくて、努力目標を語るのが憲法なのだ、現状がこうだからと言って憲法を変えていたらどんどんひどいことになっていく、というのはなるほどそうだろうな、と思う。
早起きできないからと出社時刻を遅らせていたら夕方になっても会社に行かないことになってしまう。そういうことはあるだろう。
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☆オルテガ「大衆の反逆」感想

2009年04月24日 23時17分40秒 | 文学
天海祐希主演のドラマ「BOSS」の第二回目を録画していたので見た。
このドラマの評価を誤っていたかもしれない。
そこまでおもしろくはないかも。
野村宏伸を久しぶりに見て思わず「えのもとっ!」とトシちゃんのマネで叫んでしまった。
(ウソです。)

大衆の反逆 (白水uブックス)小熊英二の「<民主>と<愛国>」のいま読んでいるところで、日本の1950年代の都市と地方の違いがものすごかった、それは文化人類学者が未開の地を訪れるほどの感覚だった、というような記述があって、いまでは信じられないくらいの格差があったのだろうなあと思った。
で、ちょうど通勤時に読んでいるオルテガの「大衆の反逆」(白水uブックス)も同じような話なのだが、こっちは読み終わった。
オルテガの本はおそらくいまの感覚で読んでもあんまりよく分からないんじゃないかと思う。自分を1950年代の日本の知識人に同化して、地方から汚い格好して都会に続々と訪れる田舎者を嫌がる感覚が必要だ。
そのような田舎者を馬鹿にする行為は今の感覚で言うと政治的に正しくないことだが、本を読むためにはそういうことも必要なのだ。
今の感覚だけを大切にして生きるのはまさしく大衆だ。
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☆小熊英二「<民主>と<愛国>」第一部

2009年04月23日 00時34分15秒 | 文学
小熊英二「<民主>と<愛国>」の第一部を読んだ。251ページ読んだのにまだ三分の一だなんて、長いったらありゃしない。
しかし、半藤一利の「昭和史」とジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」をこれまで読んできたが、それよりもおもしろい。
上野千鶴子がこの本のことを”大河小説”といっていた意味が分かった。この本と、司馬遼太郎の「坂の上の雲」との違いはないんじゃないかと思う。あっちが小説ならこっちも小説だろう。結局どっちも小説じゃないのかもしれないが。
小林秀雄が講演で「勾玉を買いなさい」と言ったのが僕には気になっていて、つまり美は遠くに置いて眺めるもんじゃなくて、買って握って味わえといった意味なのだが、そのような意味で、政治も身銭を切らないと何も分からないのだろうなという気がしている。(といって明日からプラカードとゲバ棒を持って平和を訴えようとは思わないのだが。)
どういうやり方が身銭を切ることなのかはともかく、そんな気がしているわけです。
これまで読んで特に思ったのは、
・新しい状況になっても、これまでの考え方、言葉でまずは対応してしまう、対応するしかないということ。
・小林秀雄にたいして厳しいな。
・第一部の主人公は丸山真男だな。
ということくらいかな。
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☆丸山真男と小熊英二

2009年04月19日 14時52分47秒 | 文学
〔新装版〕 現代政治の思想と行動対話の回路―小熊英二対談集
丸山真男の「現代政治の思想と行動」と「後衛の位置から―『現代政治の思想と行動』追補」を図書館で借りてざざざっと読んでみたがあまり頭に入らない。丸山真男は難しく、読んでも意味ないのじゃないかという気がしてきたのでもうやめておく。
時代なのかなあ。
時代背景がもうちょっとわからないと読めない気がする。

小熊英二の「対話の回路 小熊英二対談集」も図書館で借りてざざっと読んだ。
村上龍と上野千鶴子と姜尚中と今沢裕との対談を読んだ。村上龍の話を久しぶりに聞いた。
島田雅彦、網野善彦、谷川健一、赤坂憲雄との対談は読まなかった。
まあやはり「<民主>と<愛国>」は読むべきなのだろうな。
立花隆の「天皇と東大」も気になる。気にはなるがちらっと調べてみると立花隆の判断が紋切型だという評価が多い。その評価に対して「そうなの?」とは思わず「そうだろうなあ」と思うので読まないかもしれない。立花隆の言っていることに対して「よく調べてはるなあ」と思うことはあるが、「そんなこと言うんだ!」と驚いたことはないのだ。
戦後の歴史を振り返る本のタイトルはなぜ「ほにゃららとほにゃらら」というタイトルになるのだろうか。鶴見俊輔にも「期待と回想」というのがある。
しかも長い本が多い。
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☆滝田洋二郎監督「おくりびと」感想

2009年04月18日 22時51分25秒 | 映画
おくりびと会社の同僚が映画「おくりびと」(滝田洋二郎監督)を見て泣いた、映画館で嗚咽するほどだった、というので興味を持ち、嗚咽に憧れ、ひっそりと家で「おくりびと」を見た。
卒業式の記憶は大体の人にあって、年を取ってから卒業式で人が泣いている姿を見るとつられて泣きそうになってしまうように、葬式も年をとると参加することが多くなるので、葬式で人が泣いているのを見ると思い出して悲しくなってしまう。
非常に醒めた言い方をするとそんな感じなのかなあ。
まったく何も思い出さなかったわけじゃないが、僕にとっては泣くような映画ではなかった。
山崎努が本木雅弘にお金を渡している姿を見ると「その金は脱税した金だろうなあ」(「マルサの女」)とか、食べ方は「タンポポ」のころといっしょだなあとか、山崎努を、というか伊丹十三映画を懐かしむ映画だった。
自分のやっていることに反対する人がいて、その人に自分の仕事を見せて、納得させるという、「フラガール」と同じ形の映画だった。反対されながらも自分の納得できる仕事をし続ける姿をたまには見てみたい。
モックンがどうしてもモックンで、ショーパブっぽいというか、誰とでも軽くおしゃべりする雰囲気が滲み出ていて、もうちょっと暗い印象の若い俳優(瑛太とか?)の方がよかったんじゃないかと思った。
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☆天海祐希と松任谷由実と丸山真男

2009年04月17日 00時24分51秒 | 文学
今日はテレビをつけて天海祐希主演のドラマ「BOSS」を途中から見ていた。
途中といっても、もうほとんど終わりかけの、天海祐希が武田鉄矢に腕時計を渡すあたりから見た。
おもしろそうなドラマだ。タイミングが合えば次回も見てみよう。

テレビといえば最近はユーミン(松任谷由実)がテレビに出まくっているので、わりときちんとチェックしてみている。ほとんどの番組を見ているのに、「僕らの音楽」を見逃したのが心残りだ。
新しいアルバムを買おうかどうか検討中。
テレビでユーミンが歌っているのを聞いて、昔の歌が聞きたくなって聞いてみる。いまとはぜんぜん声が違う。(もちろんどうしたって昔の方がよい。)
ユーミンを聞きながら、丸山真男の「現代政治の思想と行動」を読んでいる。
「ある自由主義者への手紙」、「日本におけるナショナリズム」、「「現実」主義の陥穽」、「戦前における日本の右翼運動」、「西欧文化と共産主義の対決」を読んだ。
当時のことを知らないので、どれも読み始めて半分くらいになると、ちんぷんかんぷん度が進むのだが、それで良いと思いながら読んでいる。
こういうのは数をこなすべきなのだ。英語を聞き続けたらいいように、丸山真男を読み続けたら丸山真男の言っていることがだんだんわかるようになるはずだ。
ひとりのひとはだいたいにおいて同じことしか言わないものだ。
ここまで読んでつかめた丸山真男の特徴は、考察する対象の範囲を限定することと、論理で語られること(なになに主義みたいなもの)よりも具体的な行動でひとを判断するというところだろう。
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☆丸山真男「日本ファシズムの思想と運動」と「軍国支配者の精神形態」

2009年04月14日 23時53分50秒 | 文学
丸山真男「現代政治の思想と行動」。
そのなかの、「日本ファシズムの思想と運動」と「軍国支配者の精神形態」を読んだ。
《被告(第二次大戦戦犯者のこと)の千差万別の自己弁護をえり分けて行くとそこに二つの大きな論理鉱脈に行きつくのである。それは何かといえば、一つは、既成事実への屈服であり他の一つは権限への逃避である。》(106ページ)
というところの、特に「既成事実への屈服」というところにいまにも通じるものがあるなあと思った。
決まっていることには黙って従うということが正しいこととされる雰囲気がある。
最近よく、世の中のありようというか、世間の雰囲気、考えなどというもののなかに自分を含めずに考えているのが日本人の大きな特徴なのかもしれないなあと思っている。つまり、自分を除くすべてのひとによって物事は出来上がっていて、自分はそこになんの影響も与えずに含まれているのが一般的に、社会のイメージのような気がする。
温泉は熱かろうが冷たかろうが黙って入るものだし、バスはいくら暑くても窓が閉まっていれば開けてはいけないものだし、逆に開いていれば閉めてはいけないもの、というようなイメージなんだなあ、これまでの人生を顧みるに。
そういう社会なんだなあと、そういうふうに思ってみればますますそうだと思えてくる。
しばらく、人生で初めて訪れた政治の季節が続きます。
よい機会なのでこれまで読まなかったようなものを読むつもり。
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