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太宰治『お伽草紙』

2016年06月29日 21時31分19秒 | 文学
太宰治『お伽草紙』(新潮文庫)読了。
「清貧譚」も『新釈諸国噺』も「竹青」も『お伽草紙』もおもしろかった。
「竹青」の
《人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出る事は出来ません。忍んで、努力を積むだけです。》(254頁)
や、『お伽草紙』の「浦島さん」のなかの
《そうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなった。》(321頁)
《年月は、人間の救いである。/忘却は、人間の救いである。》(330頁)
など、同じような思想を述べたものも多かった。
「浦島さん」はすっかり忘れていたが、SF小説のような感じだった。亀の背に乗って、竜宮城に行くところで、目をつむっていると上下が逆転するような感じがするところなどはなかなかすごい。芥川龍之介の『河童』よりも好きだった。乙姫様はひとことも話さない。異界をくぐり抜ける感じ、姫が話さない感じ、そういうところが村上春樹を思い出させた。
また「浦島さん」はこの間見た映画『ゼロ・グラビティ』も思い出した。おしゃべりな亀がジョージ・クルーニーを思わせた。たったひとりのひどい孤独感、それから死ぬのを覚悟する感じもあの映画を思わせる。
『お伽草紙』の「瘤取り」に、瘤取り爺さんの息子の、変人で聖人の阿波聖人が登場する。この、阿波聖人というのは何だろう。本家の「瘤取り爺さん」にこのような人物が登場するのだろうか。「清貧譚」を読んでも思ったが、俗世間と離れて暮らしたいという気持ちと、俗世間を離れて暮らすのはつまらないという相反する気持ちが太宰治のなかにこのころ(太平洋戦争期)あったのではなかろうかと思う。
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ウォン・カーウァイ監督『花様年華』

2016年06月27日 22時59分29秒 | 映画
ウォン・カーウァイ監督『花様年華』を見た。
マギー・チャンの、体にぴったりしたチャイナドレスをいつまでも見ていたいと途中まで思った。途中から同じことの繰り返しで少しだれる。
最初に直感したほどの傑作ではないが、でもとてもいい映画だと思った。
ウォン・カーウァイはスタイルで見せる監督だと思う。とても惹かれるものがある。しかしスタイルしかないのかもしれない。長くは見られない。

このふたりは結局肉体関係のないままに長年惹かれ合ったということなのだろうか。
お互いの配偶者とはどうなったのだろうか。よく考えるといろいろ理解できない。
しかし映画が現実世界に照らしておかしいということはほじくり返せばいくらでも言えるが、そんなことを言ってもなにもおもしろくない。そんなことを言わないようにしていこうとこの前ミラン・クンデラの本を読んで決めた。
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『お伽草紙』と『花様年華』

2016年06月26日 23時37分02秒 | 映画
新潮文庫の太宰治の『お伽草紙』を読んでいるがとてもおもしろい。
最初の「盲人独笑」はひらがなばかりで読みにくく、何が行われているのかよくわからないまま終わってしまったが、次に収録されている「清貧譚」はとてもおもしろかった。太宰治が創作をどういうふうに考えているかが菊を創作の比喩としてとらえることで分かるような気がした。人に売ることで芸が磨かれるということと、自分のなかだけで芸を研鑽することにこだわる純粋な気持ちの対比が描かれていたと思う。
『新釈諸国噺』は昔読んだときにおもしろくなかった印象があり期待していなかったがいま読むとおもしろかった。
昔話という形式を使うことで、あまり生々しさがなく、現実世界のリアリティも求められずに、軽い感じで語れるのが良いのだと思う。そこにやはり太宰治が登場するのがおもしろい。

『恋する惑星』はあまり良いと思わなかったのだが、なんとなく気になり、以前録画していたウォン・カーウァイ監督の映画『花様年華』の最初だけちょっと見る。
ほんとにちょっとだけ見たのだが、これは傑作だと思います。最初をちょっとだけ見て傑作だと思った映画は、だいたいにおいて傑作映画であることは間違いない、とは申しませんが、これだけ惹き込まれるのは珍しい。
これは背中を映した映画なのだと思う。
重要な登場人物以外は背中しか映らない。「トムとジェリー」なんかで人間は下半身しか映らない、そんな感じ。
重要な登場人物も背中がよく映る。
こんなに背中を映した映画も珍しい。もっと背中が見たい。
不倫の映画らしいのでそこも惹かれる。どうやってこの突き放した感じから切実な気持ちに寄り添うのか気になる。
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ミラン・クンデラ『小説の技法』

2016年06月25日 23時39分29秒 | 文学
ミラン・クンデラ『小説の技法』(岩波文庫)を読んだ。
ミラン・クンデラの考え方が(彼の小説を読むよりも)よくわかり、おもしろかった。いつものように七部に分かれていて、特に第六部なんかはつまらなかったのだが、大半はおもしろく読めた。

《ところが、ブロッホの場合はこれとは違う。彼は「ただ小説だけが発見できるもの」を追求する。しかし彼は、(もっぱら一人物の冒険に基づき、その冒険の語りだけで満足する)型通りの形式が小説を限定し、その認識能力を減少させることを知っている。》(94頁)
ブロッホのことを知らないけれど、これを読むとブロッホの小説がどんなものかなと興味を惹かれ、たぶん読みにくいのだろうなと思う。ミラン・クンデラの小説も興味深いと思いながらも、ものすごくおもしろいと言えないのは型通りでないからなのだろう。この部分を読んで思った。小説というのは、一人物の冒険譚の語りを楽しむものだと言ってしまえば言えるのに、その楽しさに浸らせない。エッセイになったり哲学になったりする。

《フローベール以来、小説家たちは筋立てのトリックを消し去ろうと努め、その結果小説はしばしば、このうえなく冴えない人生よりもさらに冴えないものになってしまいました。しかしながら、初期の小説家たちには本当らしさにたいするその種の几帳面さなどはありませんでした。》(113頁)
この部分以外にも、ミラン・クンデラは小説を書くときに皆が従っている不可侵のルールについて疑問を持っていることが分かる。現実世界のリアリティが小説世界にもなければいけない、とか、登場人物の過去や外見をきちんと描写しないといけない、とはミラン・クンデラは思っていない。

《愛の代わりに茸の話をした男と同じように、アンナは「思いもかけない衝動に駆られて」行動する。これは彼女の行為には意味がないということではない。ただ、この意味は合理的に把握できる因果律の彼方にあるというだけなのだ。》(87頁)
多く言及されるブロッホやカフカよりも、このあたりを読んでトルストイが読みたくなった。ドストエフスキーの論理がちがちの、因果律きっちりの世界観よりも、トルストイの理屈じゃない世界観のほうに惹かれる。ほかにセルバンテスも読みたくなった。

引用に疲れたのでこの辺で終わる。
おもしろい本だった。
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夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』

2016年06月24日 23時54分09秒 | 文学
夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫)を読んだ。
夏目漱石のことは小説は好きだがあまり伝記的なことはよく知らない。イギリスで狂ったと言われたとか、修善寺で死にそうになったとか、ところどころ聞いたことはあるが、このようにまとめて奥さんの話を聞くとおもしろかった。
夏目漱石は、修善寺の大患後に悟って、「則天去私」と言い出してそれまでひどい人物だったのに急に聖人になったような印象があったが、この本を読むと修善寺の大患後も怒りだすようなことはあったようで、人間はそう急には変われないものだよなと少し安心した。漱石は、特に若いころはとてもひどい夫だ。こんなひととは一緒に暮らせないなと思う。
夏目漱石の家に何度も泥棒が入っていた。昔はよく泥棒が入っていたのだろうか。それともたまたまなのかわからない。『吾輩は猫である』にも泥棒が(僕の記憶では登場人物の誰かに顔が似ている泥棒が)登場したと思う。
『坑夫』は突然近づいてきた怪しい人物の話を聞いて書いたものだということを知った。
『道草』だけではなくて、他の小説も自分の身の回りの人物を描いていることもよくわかった。モデルにされた人物はそれで迷惑したようだ。いま読むとそのようなことは全く分からないのだが、発表当時はモデルとされた人物がいるというような読まれ方をされたのだと思うと不思議な気がする。いきなり名作として新聞に発表されたわけではないということが、なかなか想像できない。

死にそうなときに側で子供が泣くのを奥さんがどこかに行かせようとするが、漱石が
「いいよいいよ、泣いてもいいよ」
と言うところに感動した。
僕も死ぬときに娘が泣いたらこう言いたい。
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モーム『片隅の人生』

2016年06月24日 22時44分07秒 | 文学
モーム『片隅の人生』(ちくま文庫)を読んだ。
医者の主人公があやしい二人組に連れられて船旅をするあたりまではたいへんおもしろく、わくわくして読んだ。
そこからはあまり惹かれることもなく読み終わった。死体があってその扱いに困るというところはこの前読んだ『女ごころ』に似ているなと思った。
モームはとても好きだった時期もあるのだけれど、今読むとあまりおもしろくない。これは読む作品のせいなのだろうか。
それとも、好きだった『かみそりの刃』や『お菓子とビール』なんかも今読むとそうおもしろくないのかな。どんなものだろうか。
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ウォン・カーウァイ監督『恋する惑星』

2016年06月20日 21時52分47秒 | 映画
ウォン・カーウァイ監督『恋する惑星』の残り半分を見た。
後半は金城武は登場せず、トニー・レオンとフェイ・ウォンの話になる。フェイ・ウォンは警察官のトニー・レオンの家に手に入れた合鍵で侵入して、掃除をしたり洗面所のコップを替えたりタオルを新しい物に替えたり缶詰の中身を変えたり水槽の金魚を増やしたりする。
トニー・レオンはかっこいいと思うし、フェイ・ウォンはかわいいし、フェイ・ウォンの歌う主題歌もいいと思うのだが、やっぱりあまりおもしろくなかった。
懐かしい以外にこの映画のどこが良いのか誰か私に教えてください。
しかしそうは言っても、この理解できなさには何かがあるような気がするので、ウォン・カーウァイの映画に今後は注目していく。
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湯川豊篇『新しい須賀敦子』

2016年06月19日 21時23分18秒 | 文学
江國香織・松家仁之・湯川豊著『新しい須賀敦子』(集英社)を図書館で借りて読む。文学館の「須賀敦子展」の展示に伴って行われた対談や講演を求めた本。
興味を持ったのは須賀敦子の父親が須賀敦子に森鷗外の『渋江抽斎』を薦めていたことで、そろそろ森鷗外を読む時期かもしれないなと勝手に啓示を受けた気持ちになる。勝手に啓示を受けて真摯な気持ちになったので、森鴎外ではなく森「鷗」外と書く。
森鷗外は『渋江抽斎』がいちばんだと石川淳のような話を聞かされると、魚ははらわたがもっともうまいんだと聞かされたような疎外されたような気がして、あまり気分のいいものではないのだが、昔の文学好きが揃って口にするのだから強ち嘘でもあるまいと思う。
子供のころ夏目漱石の『吾輩は猫である』がぜんぜんおもしろくなかったのに三十を過ぎて読むとおもしろかったようなことが、森鷗外の『渋江抽斎』にもあるのかもしれない。四十を過ぎるとおもしろいのかもしれない。

須賀敦子はもうしばらくしたらまた読みたい。
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原田眞人監督『金融腐蝕列島 呪縛』

2016年06月18日 23時05分38秒 | 映画
録画していた原田眞人監督の『金融腐蝕列島 呪縛』を見た。
原田眞人の映画を見ると、いつも伊丹十三を思い出す。
この映画は何が行われているのか、銀行や株主総会のことにくわしくないのでよく理解できないのだが、仲代達矢が悪役であるということだけはよく分かる。そして仲代達矢は杖をついているが、これは『マルサの女』の山崎努なのだろうなと思った。
そしてやはり出てくる火葬場の煙突から流れる煙(『お葬式』)。
暴力団を描くのも伊丹十三を思わせる。

もたいまさこが出てきたときに、この映画はこれからものすごくおもしろくなるのかもしれないと期待したが、彼女はそんなに話すこともなく、重要な役割を与えられることもなく終わった。
『ゴースト/ニューヨークの幻』のウーピー・ゴールドバーグのような役割を期待した。

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「私結婚できないんじゃなくて、しないんです」最終回

2016年06月17日 23時21分34秒 | テレビ
テレビドラマ「私結婚できないんじゃなくて、しないんです」の最終回を見た。
おもしろくなかったが、ドラマの最終回というのはどうしてもおもしろくない。ドラマの最大の魅力である「続きが気になる」ということがもうない。なんとなく、これまでを振り返って、なんとなくみんなが仲良くなって、もうすることがないからなんとなく時間をつぶして、ということが行われる。飲み会の、深い時間の二次会三次会のような気持ちになる。一次会で帰っとけばよかった。もう今後おもしろいことは何も起こらない。
定番を崩そうとしても、それがまたおもしろくない。
「私結婚できないんじゃなくて、しないんです」も定番を壊そうとして失敗した気がする。こんなことならそのまま結婚しておいたほうが良かったのではないかと思う。
しかしそれだったらそれでどうせ不満だろう。
テレビドラマの最終回をどうしたら良いのか、「教えてやろう」と藤木直人のように言ってくれる人は誰もいない。
正解はない。すべて不正解。
おもしろいドラマの最終回は見ないのが正解かもしれない。
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