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☆伊丹十三監督「マルタイの女」感想

2007年12月31日 16時19分18秒 | 映画
マルタイの女伊丹十三の「マルタイの女」を見る。
津川雅彦がピストルで自殺する直前の、
「年寄りには二種類あって、いつまでも生きていたい年寄りといつ死んでもいいと思っている年寄りがいる。」
「人生は道端のどぶのようなところで突然終わるもんだよ。」
という台詞にたいへん感銘を受ける。
誰も言わないようなことを言う人にはいつでもとりあえずすばらしいと絶賛したい。
結局主人公の宮本信子の夢だったというシーンなのだが、とっても伊丹十三のその後を思わせるものがある。
言っているのが、ずっと伊丹監督の分身を演じてきた津川雅彦であるのも、物語のすじから言えばあってもなくてもいいシーンであることも、深読みさせるなあ。

世間のために証言します。いままで世間のおかげでやってこれたのだからその恩返しに、というようなことを物語の中心でやっておきながら、結局どうでもいい、いつ死んだっていいんだ、とその傍らで小さな声で呟いているのがおもしろい。

車を揺らされる話って村上春樹の短編にもあったような気がする。
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☆伊丹十三監督「ミンボーの女」感想

2007年12月30日 19時12分22秒 | 映画
今年は引っ越したばかりで部屋がきれいなのを言い訳にしてあまり大掃除をしていない。
ミンボーの女で、録画していた伊丹十三監督の「ミンボーの女」を見た。
たまたま、舞台になっているハウステンボスのホテルに今年泊まりに行った。
それがもっとも大きな感動だった。
うーん、あとはー、初めて見たけど、まあおもしろい映画だった。退屈はしない。
自動車教習所で見る教習ビデオをとてもおもしろく作ればこのような感じになるのかもしれない。
よくできた暴力団対策ビデオといった趣がある。

”おっかけっこ”と暴力ということが伊丹映画の中心的な題材になってきて、物語も一本線になってきてだんだんと興味を失った。
伊丹十三にそういうのを求めてなかったんだけどなー。
なんというか、インテリの小さくて複雑な世界のようなものを求めてたのになー。

しかしよく考えてみると、ヤクザを描くというのはすなわち日本を描くということであるのかもしれない。そこに日本的なものすべてがあるような気もする。
原りょうもヤクザを描く。
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☆原りょう「天使たちの探偵」読了

2007年12月29日 15時04分35秒 | 文学
天使たちの探偵原りょうの「天使たちの探偵」を読み終わった。
つまらないということは全くないのだが、やはり短編よりも長編のほうがおもしろい。
「イニシアル”M”の男」を昔読んで当時岡田有希子を想い出したのだった。それを想い出した。
「選ばれる男」に登場する草薙という議員は「さらば長き眠り」にも登場したように思う。
順番としては「さらば長き眠り」よりも先にこの短編集を読むべきなのだろうが、最後の附録の「探偵志願の男」だけは「さらば長き眠り」よりもあとに読んだほうが良いように思う。
しかしどんな順番で読もうが、「さらば長き眠り」がもっともおもしろいのではなかろうか。
最初の計画では、ここで「さらば長き眠り」をもう一度読もうかと思っていたのだが、それはやめて「愚か者死すべし」を読むこととする。

菊池寛の「志賀直哉氏の作品」というのを青空文庫で読んでいたら、そのなかに志賀直哉のことを”リアリスト”と評してあり、興味を持つ。
勝手に、「つまり菊池寛の云うリアリストというのはつまりハードボイルドのことなのではないか」と思い、志賀直哉の小説をハードボイルドという観点から読んでみようと思っている。
僕が興味を持っている太宰治と小林秀雄が、好き嫌いの違いはあっても志賀直哉に強い思いを持っているのでここらで読んでおくのも悪くないと思う。
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☆原りょう「天使たちの探偵」前半

2007年12月28日 01時34分44秒 | 文学
原りょうの短編集「天使たちの探偵」を読んでいる。
前半の、
「少年の見た男」
「子供を失った男」
「二四〇号室の男」
を読んだ。
気になって調べたが、探偵の沢崎がよく読んでいる囲碁の本の著者”大竹英雄”というひとは実在するようだ。
”ロートル選手”という言葉もわからなかったが、これは「役立たず」「時代遅れ」ということらしい。(ウィキペディアより)

原りょうはこれを読んでしまうとあとは最新作が残っているだけ。
ここまで来たらついでに本家のチャンドラーも読んでみようかという気になるが、おそらくそのうちに新訳が出るだろうと思うのでもう少し待っていよう。
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☆原りょう「私が殺した少女」感想

2007年12月26日 22時49分37秒 | 文学
私が殺した少女原りょうの「私が殺した少女」を読んだ。
犯人が誰であるかだけは記憶していたが、そのほかの部分はきれいに忘れていた。
「さらば長き眠り」、「そして夜は甦る」、「私が殺した少女」と最近立て続けに読んだが、最近のものになっていくほどおもしろいように思う。つまりこれまで読んだ中では 「さらば長き眠り」がもっともおもしろい。久しぶりに読んだせいもあるかもしれないけれど。
「チェシャー猫(キャット)」は毎回登場するのだろうか。あまり意識していなかったのでよくわからないのだが、三作ともに出てきたように思う。猫にあえて「キャット」とルビを振るのにひっかかりを感じたことがここ最近で三回はあった。
<朝日新聞>であって、”朝日新聞”でも「朝日新聞」でも朝日新聞でもない。この表記はわりと独特だ。”(ダブルクオーテーション)もたまに使用しているようなので明確な違いを設けているのだろう。

主人公で語り手の探偵沢崎は出来るだけ調査のときに嘘を言わないようにし、嘘をつくときは嘘であることを明言する(もちろん話し相手にではなく読者に)。
わりと倫理的な人だなといつも感心する。
フェアなミステリというのはこういうものなのかもしれないが、そこがたいへん特徴的だと思う。
「さらば長き眠り」ではそこを逆手にとって渡辺については何も言わなかった。嘘も言わないかわりに、何も言わない。こういうのって確か「レティサンス(reticence)」って呼ぶのだったと思う。故意に言い落として、言わないことで何かを語る。
そのようなことを考えて、「さらば長き眠り」を読んだあとカズオ・イシグロを読みたくなったのでした。
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☆伊丹十三の「マルサの女」

2007年12月26日 00時47分44秒 | 映画
マルサの女伊丹十三の「マルサの女」をテレビで放送していたのでやはり見てしまう。
もう何度も見ているけれど、やはり見る。
伊丹十三の「マルサの女」までの作品と、宮崎駿の「もののけ姫」以外の作品は何度も見ているし、何度でも見てしまう。まさに「いつも何度でも」といったところ。
やはり伊丹十三は偉大だ。
俳優が何を言っているかはっきり聞き取れるだけでもすばらしいと思う。そんなことは当たり前のことだと思うが、最近の日本映画はテレビの音量をかなり大きくしないと聞き取れない映画が多いのでそんなことも思ってしまう。

もうほんとうに何度も見ているのでいまさら気づいたこともない。
一点、山崎努の家の本箱に昔の大江健三郎全集かな、と思える本があったがどうでもいいのできちんと確認はしなかった。違うような気もする。
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☆森鴎外「渋江抽斎」読了

2007年12月24日 00時52分55秒 | 文学
テレビで「M-1グランプリ」を見た。
名前も知らなかったが、トータルテンボスというコンビがおもしろかった。
審査員の中でとくに期待していた上沼恵美子にもっと話を聞いて欲しかった。

森鴎外の「渋江抽斎」を読み終える。
結局おもしろかったのは最初の、鴎外が渋江抽斎を発見するまでの話のところでそのあとはおもしろくなかった。
抽斎の妻五百(いお)が素っ裸のまま小刀を持って登場し泥棒に湯をかけるところなど、ふうんと思うところもあったが、全体的には退屈だった。(それにしてもこの五百の話は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」でおりょうが裸で竜馬に危険を知らせる話に似ている。)
ディケンズやジョン・アーヴィングの小説を読むと、物語の最後の最後になってその後の脇役の登場人物たちの生きざま死にざまが駆け足で描かれることがよくあって、「こんなもの知りたい人がいるのかな、退屈だ」とよく思うのだが、「渋江抽斎」の後半はずっとそのような感じだった。
ほかに思い浮かぶのは、文学全集のおしまいにその文学者の年譜が載っていることがあるがそれをずっと読まされる感じだ。
どちらも僕は熱心に読むほうではない。
よってこれにて森鴎外の歴史小説を読むのはいったん中断する。
また読みたくなることがあれば読むかもしれない。

「渋江抽斎」を読んでいると、もっと読みやすい歴史小説が無性に読みたくなったので、司馬遼太郎をまた読み始めることにしようと考えている。
今回は「国盗り物語」「新史太閤記」「関ヶ原」などを読んでいきたい。
原りょう特集のあとは司馬りょう特集。
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☆原りょう「そして夜は甦る」感想

2007年12月23日 21時11分10秒 | 文学
そして夜は甦る原りょうの「そして夜は甦る」を読んだ。
石原慎太郎が東京都知事になったのが1999年で、石原裕次郎が死んだのが1987年らしいので、全くこの物語が発表された1989年時点にはこの話のような状況ではないのだが、どう見てもモデルになっているとしか思えない。
勝新太郎はまだ存命中だったんだな。
森下愛子もまだ30代。
PL学園の清原と桑田という響きも懐かしかった。
結末は難しかった。

昨夜は突然腹痛になりほとんど寝れてなかった。
朝方やっとおさまり昼まで寝てた。
腹痛の後はいつもしばらく内臓(?)が筋肉痛のようになるのでいまはまだそんな状態。
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☆渋江抽斎の死

2007年12月23日 00時54分35秒 | 文学
森鴎外の「渋江抽斎」は渋江抽斎本人が死んだのにまだ続いている。
死後15年くらいたった。
彼が死んだあとの未亡人五百(いお)や子供たちの姿が描かれる。
それにしても本人が本全体の半分くらいに死んでしまうというところに驚いた。
特に渋江抽斎に何かを期待して読んでいるわけではないつもりだったのだが、死んでしまって意外とがっかりした。
どんな物語にも主人公に期待する権利が読者にはある。
(なんだか知らないが格言みたいに言ってみる。)

今日書店で原りょうの「そして夜は甦る」と「私が殺した少女」と「天使たちの探偵」の文庫を買う。3冊とも実家にあるのだが、読みたいので買った。それに単行本未収録の短編が文庫には入っているようなので買った。
「そして夜は甦る」を読んでいる。
内容はまったく忘れている。
本屋でよく思うのだが、平積みされている本の上に平気で鞄を置いて立ち読みしている人の神経がよくわからない。
そのうち平積みの本の上に座って本を読み出すんじゃないかと思う。
ジャンプか週刊文春かなにかと勘違いしているんじゃないかな。そこにあるのは本ですよ、雑誌じゃないですよ、と意味不明瞭な説教をするくそじじいにそのうちなってしまいそうだ。気を付けないといけないと思う。
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☆村上春樹「東京奇譚集」感想

2007年12月21日 02時24分28秒 | 文学
東京奇譚集村上春樹の短編集「東京奇譚集」の、
「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
「日々移動する腎臓のかたちをした石」
「品川猿」
を読んだ。それぞれ、
「氷の微笑」(足を組みかえるところ)
「グレート・ギャツビー」(父との会話)
「千と千尋の神隠し」(名前)
を思い出した。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」は、「オールド・ファッション」の台詞がとっても可笑しかった。会話の相手の少女も良くできていた。ほんとうにすごいと思う。
その前の知的な老人もおもしろい。このような雰囲気を出せる日本の作家ってあまり知らない。海外なら知ってるのかと言えばさらに知らない。
知的なことをもともと知らないか、知っていたらりきんでしまうかどちらかで、さらっと出来るひとがいない。
「偶然の旅人」と、この短編がもっともよくできていると思った。

「品川猿」は途中、大丈夫かなと不安にさせるがやはりうまく着地させる。
自分では気づかないことも猿に言われると気づくということもある。(あるか?)
でもちょっとやりすぎかなあ。五つあってそのなかのひとつがこれであるのは平気だけれど、全部この調子だとつらい。

たぶん若いころは村上春樹の小説に、明日使える言葉を求めていたように思う。つまりはっきりとした結論のようなものを求めていた。
で、短編にもそれを求めるが、いつも終わりはさらっとしているのでなんとなく食い足りない気がしていたように思う。
今回読んでみて、自分の読み方もだいぶ変わったのかなあという気がした。
とってもおもしろかった。
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