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☆マックス・ウェーバー「職業としての政治/職業としての学問」

2009年06月30日 23時35分34秒 | 文学
職業としての政治 職業としての学問 (日経BPクラシックス)マックス・ウェーバーの「職業としての政治/職業としての学問」(日経BP社)読了。
なんだかいろいろと心に残りそうなことを語っていたように思うが、まったく心に残らぬままに終わってしまった。いまはまだマックス・ウェーバーの時期じゃないと考えよう。
ニーチェとトルストイについて何度か語っていた。どちらも興味があるので、マックス・ウェーバーのことも好きになるはずなのに、残念だ。残念だ、としか言えない。
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☆ウェーバーとニーチェ

2009年06月29日 23時40分38秒 | 文学
中沢新一と小林秀雄とマックス・ウェーバーとニーチェを交互に読んでいる。マックス・ウェーバーとニーチェはともに訳者は中山元。
マックス・ウェーバーの「職業としての政治」(日経BP社)を読んだ。信条倫理と責任倫理という考え方を知った。
「わたしの考えは考え方としては間違っていない。おかしかったのは世界のほうだ。」というのは信条倫理で、自分の行いの結果の責任はわたしにあると考えるのが責任倫理。
政治を仕事としようとする人には責任倫理が必要だというような講演だった。
マックス・ウェーバーはたぶんすごいのだろうけれど、初めて読むのであまりその凄さはよく分からなかった感じ。引き続き「職業としての学問」を読む。

同じく中山元訳のニーチェ「道徳の系譜学」(光文社古典新訳文庫)は読み始めたばかりなのだが、ものすごい。
これはほんとにものすごい。
タイミングもあるのだろうけれど、訳が新しいこともあり、よくわかる。
たぶんニーチェのせいで、マックス・ウェーバーが霞んでいる感じだ。

中沢新一は立ち読みして「おもしろい!」と思ったのだが、その場で本を買わずに図書館で「はじまりのレーニン」(岩波書店)を借りて読んでいる。
これは小説みたいなものなのだろうか。小説を読むような気分で読んでいる。
レーニンがよく笑うことや動物や子供が好きなこと、などが描かれる。
理論ではとらえられないものをとらえること、をこの本では問題にしているのだろう。
レーニンは馬鹿だとか、マルクスをあまり理解しなかったとか、否定的に言われることが多いのだが(否定的な話しか聞いたことがない)、この本では肯定的に描かれている。
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☆カミュ「ペスト」感想

2009年06月28日 01時14分17秒 | 文学
来週仕事上のことである出来事があり、前祝いに夫婦でお酒を飲みに行く。
ほんとうは良いことか悪いことなのかよく分からないのだけれど、祝う。
結婚するからといって幸福になるとは限らないし、新しい年を迎えたからといって必ずしも喜ばしいわけではない、とか、そんなめんどくさいことは言わずに、結婚式で「おめでとう」と言われて「ありがとう」と応じたり、新年に「おめでとう」と言い合ったりすることには人々の知恵があるのだと思う。
今後どうなるか分からないときにとりあえず喜ぶのはとても正しいことだと思う。
その態度がその後に影響を与えると思う。

ペスト (新潮文庫)長らく通勤時に読んでいたカミュの「ペスト」(新潮文庫)を読了。
長くかかりすぎて内容もよくわからない。
確か、新型インフルエンザ現象に影響されて読み始めたのだった。
カミュの「異邦人」を何年か前に読み返したときにとても面白く思い、語り手の「どっちでもいいんだけど……」という態度にものすごく共感したのを覚えている。
今回はそのような共感を覚えることがなかった。
三人称で語られるのだが、実は登場人物のひとりが三人称で書いている、という設定で、そこには注目していた。
そのような、書き方については興味があったのだが、ペストを何かの比喩として読むとかそのようなことにあまり興味が持てなかった。
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☆ドラマ「BOSS」がおしマイケル、虫歯、フランシス・ウィーン「マルクスの『資本論』」

2009年06月27日 15時07分45秒 | 文学
きちんと毎週見ていたテレビドラマ「BOSS」が終了。
最終回は少しつまらなかった。
反町隆史もいまいちだったが、津川雅彦がやりすぎている気がした。
続編を作るつもりなのかなと思わせる作りだった。

マイケル・ジャクソンが死亡。
マイケル・ジャクソン好きとして、彼の曲を聴いて故人を偲ぶ。
やっぱりいいよなあ。

歯医者で麻酔をされて虫歯の治療をする。
治療中、直接の痛みはないのだが右頬のずっと遠くの方でものすごい激痛が存在している気がする。がんがん殴られているのにそれを自分の痛みとして感じることのできない感じだった。

マルクスの『資本論』 (名著誕生)フランシス・ウィーンの「マルクスの『資本論』」 (ポプラ社)を図書館で借りて読んだ。
訳者が中山元ということで読んだ。
マルクスの「資本論」はまえまえから興味があるのだが、なかなか読む機会がない。
「資本論」は経済学の本ではなく、思想の本なのだな、ていうか経済学とは思想なのか、と思いながら読んだ。それほど多くのことがこの本を読んで分かったわけではない。読まなくてもよい本かもしれない。
言語というのは個々の人間によって作られたものだが、出来上がってしまえばそれに囚われてしまう、というような感じでお金をとらえることができるのだということを、マルクスの「資本論」を読むときには糸口としたい。
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☆村上春樹「ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編」感想

2009年06月22日 01時45分28秒 | 文学
ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)村上春樹「ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編」読了。
少し退屈しながら読み切る。
ちょっと複雑すぎて、ついていけないところがある。いろいろな視点で、いろいろな文体で語るということがしたいのだろうと思うのだが、ちょっと疲れるかな。
綿谷ノボルが何なのかがもっとも大きな疑問だ。いったい彼が何をしたのか、妹のクミコを何のために軟禁(?)しているのか、何のために語り手の邪魔をしようとしているのか普通に考えると全く理解できない。
物語的な、巨大な悪の象徴とかそのような感じなのだろうか。
物語的な悪を物語的に退治する話なのだろうか。そのような解釈でいいのだろうか。
なんとなく最近、書いている村上春樹に自分を同化させないと村上春樹は読めないんじゃないかという気がしている。村上春樹に同化できた分だけ小説が愉しめたことになるように思う。
当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが、まだまだそこまで村上春樹に同化することはできない。
書いている村上春樹は気持ちいいのかもしれないが、読んでいるこっちはそこまで気持ちよくなれていない、という感じがこのころの長編小説からはしてくる。「ノルウェイの森」にはもっと何かに触れている感触があるのだが、「ねじまき鳥クロニクル」にはそれがない。
批判しているのとはちょっと違って、それはそれでしょうがないことだと思う。

クミコが綿谷ノボルを殺して刑務所に入るところを全く憶えていなかった。そのような現実的な結末があったことをすっかり忘れていた。
好きか嫌いかどちらかで言えば、僕は笠原メイが嫌いだ。
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☆虫歯

2009年06月21日 01時33分53秒 | 文学
歯医者には歯石を取ってもらうために行っただけなのに、虫歯を見つけられてしまう。やれやれ。
歯医者というのはどうしてこうも虫歯を見つけるのがうまいのだろう。
これまでまったく気にしてもないし痛いとも思っていなかったのに、気になって舌で触ってしまう。
そして痛い気がしてくる。
ひどい。

村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル 第3部」を読んでいる。239ページ。
あまり進まない。
村上春樹が何をしたいのかよく分からない。
魚釣りはほとんどしたことがないけれど、魚が餌をくわえた瞬間にはものすごい力強さを感じる。
まだ針を飲み込んだ魚がぐいぐい引っ張る力強さをこの「ねじまき鳥クロニクル 第3部」から感じることができない。
小説を物語る視点というものをものすごく意識して書いているなという気はするが、あまりそれに対して興味が持てない。
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☆二十世紀小説の堕胎ズム

2009年06月19日 00時07分35秒 | 文学
結局仕事のマニュアル化とか基準・規則の整備とか言っても、最後の砦となるのは働いてる個人の倫理感なんだよ。誰にも見られてなくても自分の気持ちのいい仕事を逃げずにできる人がどれだけいるかに仕事のできはかかってくる。マニュアルの整備なんか何の役にもたたねえんだよ、ゴミ箱にでも捨てちまえ、と心の底ではいつも思っている。
大きな声では言わないけど。
この間、某大型書店で、岩波文庫の新刊を探したのだが見つからず(私の書店での書籍捜索能力は凄まじいものがあると自負している)、まだ入っていないのだなと思ったのだが諦めきれず書店員に、「岩波文庫の新刊はまだ入っていないのですか?」と尋ねたら、「題名は何ですか?」と訊かれ「たしか『自由への道』だったと思います」(思いますじゃなく間違いなく「自由への道」なのだが)と答えると、さささっと書棚に行き、はいこれですね、と渡された。
サルトルの「自由への道 1」は確かにきちんと岩波文庫の棚にあった。
書店員は仕事を終えると小さく礼をしてさささっとどこかへ去っていった。
やはりプロの仕事は素晴らしい。紀伊国屋書店バンザイと思ったのでした。
しばらく前にも思ったことはあるのだが、大型書店の書店員はできるひとが多い。
(しかしこういう一般化は、言ってしまった後で疑念が伴うものだ。たぶんそうじゃない大型書店も、できる書店員の多い中小型書店もある。しかしあまりに反省しすぎると何も書けなくなってしまうものなので適当に一般化しておく。)

サルトルの「自由への道」は堕胎がテーマのようだ。
「ねじまき鳥クロニクル」からの堕胎つながりだ。
ちょっとその連鎖はあまりよくないような気がするし、「自由への道」は全六冊だからまだ買わなくて良いかと思い、ヘミングウェイの「武器よさらば」を購入する。
しかし、「武器よさらば」は未読なのだが、確か最後に妊娠に関するなんらかのオチのある小説だったような、そんなことをどこかで読んだような気がしてならない。
だから村上春樹も「ねじまき鳥クロニクル」で「武器よさらば」を登場させているような、そんな気がする。

(堕胎ズムとはダダイズムとひっかけたつまらぬ洒落でございます)
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☆村上春樹「ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編」感想

2009年06月16日 23時13分35秒 | 文学
冷蔵庫の冷蔵室がなかに入っている食品を冷凍するという出来事があり、新しい冷蔵庫を購入する。前のものよりも大きく、観音開きで、比喩が適当かどうか分からないがちょっと〈仏壇のような〉冷蔵庫だ。
仏壇のような冷蔵庫。
冷蔵庫のような仏壇。
きんきんに冷えた位牌。

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編」(新潮文庫)読了。
小林秀雄の影響で、本を読むことは善(みたいなもの)につながることなのだという気がしてきている。漢意(からごころ)を排して、ただ素直に直に本を読んでいれば何かにつながるのだという、なんだか江戸の私塾で学んでいる気分になってきている。
だいぶやばい。
以下、雑多な感想。

・何かを待っている間、飲んだり食べたりする話がヘミングウェイの「武器よさらば」に登場するそうで、興味を持つ。小説を読んでいて登場する小説にはわりと興味を持ってしまうほうだ。「ノルウェイの森」ではきちんと読んでいる本のタイトルが書かれていたが、「ねじまき鳥クロニクル」ではタイトルはあまり明記されない。
自分たちが小説の登場人物だとしたらリアリティがあるかどうかを考える、というようなことが出てきた。「1Q84」にも同じようなことがあった。村上春樹はこのような遊びを結構やる。
・初めて読んだときはまだ独身だったので、あまり感じなかったが、妻との仲がぎくしゃくするところや、妻が浮気したときの気持ちなど、夫婦生活のこともきちんと書いているのだなと思った。
たぶん、SFっぽくというか、非現実的な話としてこの小説をかつては読んだと思うのだけれど、妻が浮気して逃げてしまう現実的な話としても読めるようになっているのだ。
・しかしまるっきり現実的な話としては読めない。
それでは加納クレタが綿谷ノボルに何をされたのかよく分からない。
一度塗った部分をあとからもう一度別の色で塗る、というようなことがある。
妻のクミコの堕胎の話を読み、そのあとでクミコの洋服を着た、クミコと体型の似ている加納クレタから綿谷ノボルにされたことの話を聞くことでこれは堕胎なのだなと思う、または堕胎をイメージするということがある。
プルーストから村上春樹まで、二十世紀小説にはそれなりの読み方があるのだ。
・《いろんな人々の意識なり自我なりを私に通過させることによって、私が自分というものを獲得することが可能になると、姉は考えていたのだと思います。》(256ページ)
空っぽの私のなかを物語が通過していくことで私が変わっていくということがこの小説のひとつのテーマなのだと思う。
・壁抜けのあとの頬のあざ。《大きさは赤ん坊の手のひらくらい》(212ページ)。堕胎で赤ん坊かあ。
・最後の、クミコから謎の女への架橋(、というかイメージの飛躍みたいなこと?)がどうしても僕には理解できない。唐突すぎる気がする。
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☆村上春樹「ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編」感想

2009年06月15日 00時03分49秒 | 文学
土曜日は午前中に近所の歯医者に行こうと思ってサンダルで出掛けたのに、臨時休業だった。
初めて行く歯医者なのに、縁がないということだろうか。また来週。

橋本治の「双調平家物語」の文庫を立ち読みするも、私には読めない代物だろうと諦める。なんだか漢字が多かった。しかも全15冊かと思っていたら16冊だった。これも縁がなかったのだろう。
私はどんな本でも読めるという人間ではない。そんなにえらくはない。
特に古典は苦手だ。歴史もまだまだそんなに得意ではない。

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)しばらく前に買っておいた村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)を読みはじめる。
「第1部 泥棒かささぎ編」を読み終え、「第2部 予言する鳥編」の真ん中あたり(131ページ)まで読んだ。
「ねじまき鳥クロニクル」を初めて読んだのは確か、1995年なんじゃないかと思う。第2部まで読んでいて、遅れて発表された第3部を待った、という記憶がないので、第3部まですべて発売されてからハードカバーを古本屋で買って読んだように思う。
1995年というと、21歳で、まだ大学生だったということか。
あまり憶えていないのだけれど、そのあとしばらくして僕は村上春樹に的外れな反発を感じた時期があって(そのような時期が青年には訪れることがあるのです)、「ねじまき鳥クロニクル」を古本屋に売ってしまったので、この本を読むのは2度目だ。

とてもおもしろくてすらすら読める。
「海辺のカフカ」や「1Q84」ほど小難しいことも言わない。
今までのところで気になったのは、
・「わたしが難しいと言ったら、それは本当に難しいのだ」とか「わたしにはただ分かったのだ」というような表現がよく使われる。物事は理屈ではなく、直観だ、ということか。
・本田さんが形見として残してくれた箱が空っぽというのは、そこに何か深い意味があるわけじゃなくて、普通に考えれば、本田さんは語り手と間宮中尉を会わせたかったということなのだろう。そういうことにしておこう。
・語り手がほとんど動かずに、語り手にいろいろな人が会いに来て(または電話してきて)物語をして帰っていく。
物語の途中で「じゃあ、このへんで」と物語の話し手が帰ろうとするのを、語り手が「ちょっと待ってください」と言って引き止めて物語を続けさせるということが2度ほどあった。最近読んだ村上春樹の他の小説にもあったように思う。
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☆「小林秀雄全作品23」感想

2009年06月13日 14時17分01秒 | 文学
小林秀雄全作品〈23〉考えるヒント〈上〉「小林秀雄全作品23」(新潮社)読了。
ハンナ・アレントが哲学と政治について語っているところで、哲学というのは現実のなかから一般的な、抽象的なものを取り出して作り上げるので、そこに実際に生きている個々の人間はいなくて一般的な人間しか存在していない。だから哲学者は現実の政治から離れたのだ、ということを言っていた。
それなりに長く生きていると、世の中はこういうものだとか、人間はこういうものだとか、歴史はこういうものだという考えができていき、そうなってしまうと、今度は逆にそのようにしかものごとを見られなくなってしまうということがある。
そのあたりのことを小林秀雄を読むといつも考えさせられる。

この巻ではなく引き続き読んでいる次の巻「全作品24」に以下のように書かれていたのだが、ところどころでとても感心するところがあり、古典からの引用が多く退屈することもあるのだが、ついつい読んでしまう。
《友を得る為には、友を自分の方に引き寄せればいい、そんな道が、友を失う道に過ぎないとは、生活経験に基く智慧には、はっきりした真理である。》(「徂徠」)
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