中島岳志『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)を読んだ。
保守というものの印象が最近ものすごく悪いのだが、この本を読むと保守というのはいいものだと思った。
人間が作るものは不完全であるのでその時々に応じた改革を行っていくというのが保守らしい。これは左翼の、人間の理性によって理想の社会を作ることが出来るという考えと対立する。
福田恆存の名前が何度か出てきて、興味を持った。ちょっと読んでみようと思う。
中島岳志の文章は「終わりに美辞麗句」という特徴が少しあり、そこが良くないと思う。
いろいろ語った後になにか一文最後に言って終わる、という傾向があって、癖なのだろうと思うがちょっと無責任な感じがする。
親鸞の「悪人正機」について、
《親鸞は「悪人正機」を説いたことで知られていますが、これは何も「悪いことをした者が救われる」と言っているのではありません。「人間存在はすべて悪である」という認識を持つことによって、はじめて阿弥陀仏の絶対他力にすがる態度が生まれると説いているのです。》(100頁)
と語っているところがあり、確かに親鸞の手紙などを読んでいると「悪人正機」については誤解されているのではないかと思うことがあり、考えてみたい。
「悪人こそ救われる。では善人は?」とか、常識の反対を言っていて素晴らしい、みたいな話になりがちなのだが、親鸞はもう少し常識的な話をしているのにたまたま言った言葉の言葉尻をとられているだけなのではないかという気もする。
保守というものの印象が最近ものすごく悪いのだが、この本を読むと保守というのはいいものだと思った。
人間が作るものは不完全であるのでその時々に応じた改革を行っていくというのが保守らしい。これは左翼の、人間の理性によって理想の社会を作ることが出来るという考えと対立する。
福田恆存の名前が何度か出てきて、興味を持った。ちょっと読んでみようと思う。
中島岳志の文章は「終わりに美辞麗句」という特徴が少しあり、そこが良くないと思う。
いろいろ語った後になにか一文最後に言って終わる、という傾向があって、癖なのだろうと思うがちょっと無責任な感じがする。
親鸞の「悪人正機」について、
《親鸞は「悪人正機」を説いたことで知られていますが、これは何も「悪いことをした者が救われる」と言っているのではありません。「人間存在はすべて悪である」という認識を持つことによって、はじめて阿弥陀仏の絶対他力にすがる態度が生まれると説いているのです。》(100頁)
と語っているところがあり、確かに親鸞の手紙などを読んでいると「悪人正機」については誤解されているのではないかと思うことがあり、考えてみたい。
「悪人こそ救われる。では善人は?」とか、常識の反対を言っていて素晴らしい、みたいな話になりがちなのだが、親鸞はもう少し常識的な話をしているのにたまたま言った言葉の言葉尻をとられているだけなのではないかという気もする。