ダブログ宣言!

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テニス天国、赤ちゃん天国

2012年04月29日 23時37分56秒 | 文学
この大型連休はテニススクールに通ったり、娘の病院に通ったりして過ごす予定。
先週休んだので二週間ぶりでテニスをしたら右肩が痛いので、風呂上がりに「のびのびサロンシップ」を貼ったらものすごく気持ちがいい。(個人の意見です。)
連休中にあと三回テニスに行く予定。
子どもが生まれていま最も疑問に感じ、興味を持っていることは、「へその緒」は何故特別な存在として崇められているのか、ということ。母と子をつないでいたものということで信仰の対象になっているのだろうと思われるが、そんなに大事? と思ってしまう。そこらへんのことを、柳田国男か折口信夫は何か言ったりしていないだろうか。
本は、三浦雅士の『青春の終焉』(講談社学術文庫)を読んでいる。はじめの頃の、私小説についてのことを語っているあたりは大変おもしろかったのだが、いま滝沢馬琴について語っていて、「もういいよ」という感じになってきている。小林秀雄の『考へるヒント』と吉川英治の『宮本武蔵』を読まねばなるまい、と思った。丸谷才一を、太宰治の後継として、とりわけ彼のエッセイを褒めたたえている。しかも、この文庫版では丸谷才一が解説を書いている。江藤淳の影響もあるが、丸谷才一はどえらい政治家だなあという印象深まる。丸谷才一のエッセイはそんなにすごいのだろうか。
小林秀雄や吉本隆明や中村光夫など、いろいろな人物が登場するが丸谷才一ほど褒めたたえられる人物はいない。とくに中村光夫の扱いがひどい。もうほとんど誰にも顧みられることのない中村光夫をこんなに悪く言ってどうするのだろう。息の根を止めるつもりだろうか。しかしかえって読みたくもなる。
NHKの「新型うつ」についての番組を見る。どういう症状を「新型うつ」と呼ぶのかわかった。
どうしても、鬱だ鬱だと世間が言ってるから鬱になっているひとが多いのではないかという気がしてしまう。これはおそらく当たっているのだろうし、当たっているからと言って何も解決するわけではないが、どうしてもそんなことを言いたくなる。
自分で作った自分についての物語からひとは抜け出られなくなってしまうものだということを考えさせる。
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「父である」ことと「父をする」こと

2012年04月23日 21時22分01秒 | 育児
4月19日(木)
娘の卵巣が膨れているので妻とは別の病院に入院し、検査することになる。
もともとお腹の中にいるときから、エコーでなにかあるということは分かっていたのだが、膀胱なのか卵巣なのかわからないでいて、出産してから検査ということになっていた。
こちらとしてもある程度心の準備はしていたものの、もっとしばらく様子を見てからだと思っていたし、別の病院に搬送される様子が、赤ちゃん専用の入れ物に入って救急車で連れて行かれ、ものものしく、また連れて行かれる時に他の見舞客などが振り返って話したりしていて、「うちの子は病気なのだ」と思い、非常に切ない気持ちになる。
しばらく経って、外出許可をもらった妻と二人で娘の入院先の病院に車で移動し、医師の説明を受ける。医師はきちんと説明してくれる人で、こちらの不安もだいぶ取り除かれる。
病状の説明だけでなく、入院の説明や面会の説明などもありくたくたになる。
帰る前に娘に会って帰る。非常に元気そう。
妻の入院している病院に戻り、コンビニで買った弁当を食べ、そのあと家に帰り娘の出生届や入院手続きの書類などを書く。まだ生まれて二日しか経っていないのだな、と思う。

4月20日(金)
娘の入院手続きやら面会やらで今日も会社を休む。
午前中に出生届を役所に出しに行く。
娘の名前は妻が妊娠中に夢の中で「○○ちゃん」と呼んでいたということから、その名前に漢字をあてて付けた。
娘の名前をなんどか書いたがまだ緊張する。私の名前や妻の名前を書いてはいけない、と思い力が入る。これで名実ともにうちの子になったのだなと思う。児童手当の手続きもする。
午後からは妻を連れて娘に面会。検査のための麻酔で眠っている。「かわいそうに。薬を飲まされたんだね、クラリス」という『ルパン三世 カリオストロの城』の台詞を思い出す。(嘘。いま書きながらの思いつきです)
手術の時の麻酔の説明を受ける。人工呼吸器を付けることについてわりと念入りに説明される。人工呼吸器を付けている姿を見ると悲しくなる親が多くいるのだろうな、と思う。昨日も思ったが、小児科の先生は親の気持ちをよく汲んでくれる。娘の名前について、呼びやすくてかわいい良い名前だと言われる。お世辞だと思っても嬉しい。
娘が目覚めて泣きだしたので、妻は母乳をあげたり(まだ出ないが)、ミルクをあげたりする。かなり練習が必要だ。妻が、自分の入院している病院とやりかたがいろいろ違うと言う。そうだ、みんないろいろな考えでいろいろ言うのだ、正解があるわけではない。お前も好きなようにやれ、と思う。
娘については、世話をほとんどすべてこの病院のスタッフに任せることになる。しかし考えてみれば、子育てというのは、すべて親の思い通りにはならないものかもしれないと思う。自分の所有物で自分の思いで作り上げようと思っていると他人の手が入ったときに複雑な思いになるが、私の管理ではあるが解放されている、というくらいに思っておいた方が良いと思う。ブログをやり始めたときにコメントやトラックバックについて、気に入らないものがあるといちいち削除するひともいるがあまりそういうことをすまいと思った。そのときの思いに似ている。「私のもの」という思いをあまりに強く持ちすぎるのはよくない。
うちの子がいちばんかわいいね、と妻が言い「そのとおり」と思う。

4月21日(土)
今日も妻の病院に行き、そのあと娘の病院で面会。
出産からあと、毎朝5時とか6時とかに目覚めるようになっていたが、気分もだいぶ落ち着いたのか普通に眠れるようになる。
テニススクールは休む。
娘を抱いていると、ぶりぶりっとうんちをする。私としては初めての排便遭遇。
おむつを脱がすと、マスタードのようなうんちをしている。感動。
看護師に手伝ってもらいながら妻がおむつの脱ぎ着をさせる。
妻が母乳をあげる練習をしたり、私がミルクをあげたりして過ごす。泣きだすとすごく力強く、「よしよし元気だ」などという優雅な気分ではいられず、「これはたいへんだ」という気分になる。
背中をさすってげっぷをさせることができない。首がゆらゆらして恐ろしい。いろいろと難しい。
いまは病院でそばに看護師がいて困ったら教えてくれたりやってくれたりするが、手術が終わってしばらく経って退院してきたらこれはたいへんだ。
家に帰って丸山真男の「「である」ことと「する」こと」を読む。父になるというのは子どもが生まれたからそのまま父であるわけではなく、父としての行為をしていくことで父になるのだろうな、ということを考えながら読む。娘が生まれて父親になった実感は、あるようで、まだないような、流動的な気分。

4月22日(日)
今日も妻と二人で娘に面会。
ミルクをあげたり、あやしたりして過ごす。
背中をとんとん叩いてさすってげっぷをさせることが初めてできた。
うれしい。
とてもうるさく泣いたり、なにかが気に入らないと絶対にミルクを飲まなくなったりして、我が強くて頑固な子だと思い、なんだかすこしうれしい。やはりこのくらいじゃないと。
さんざん苦労して予定の量のミルクを飲ませることができた。
帰る直前になって、ぶりぶりっとうんちをする。

4月23日(月)
午前に妻が退院。
そのあと娘の病院へ行く。今日は手術なので点滴を打たれ、動かないように身体をタオルでぐるぐる巻きにされている。怪我をした試合後のボクサーかアメフト選手のような感じになっている。
見ていると泣きだす。手術なので、朝ミルクをもらったあとに何も食べていないのでお腹がすいているのだそう。
触らないでいたのだが、抱っこして良いそうなので妻が抱っこする。泣きやんだりまた泣き出したりを繰り返して手術までの時間を過ごす。泣き続けるので、妻が「駄目だねえ」と言っていると看護師に、駄目って思ったら赤ちゃんも駄目って思う、大丈夫と思わないといけない、と言われる。これはすばらしい。子育てというのは心を鍛えられるものだな、と感心する。心の状態を比喩としてとらえるときに、抱っこした赤ん坊のようなものだととらえると分かりやすいと思う。自分の心を上手に扱うには、上手に安心に導いてあげる必要がある。
13時に娘が手術室に行く。
ご飯を食べたり待合室で本を読んだり妻と話したりして過ごす。
16時前に手術が終わり帰ってくる。両手をあげて眠っている。
そのあと医者から手術の説明。iPadで写真を見せられながらの説明を受ける。へそを切って、水の入った風船のような卵巣から切って水を出し、卵巣を縫い合わせたことが写真を見てよく分かった。卵巣がお腹の四分の一くらいの大きさに膨れていたのでさぞかし腹が膨れている感じだったろう。これからはお腹いっぱいミルクを飲んでください、と思う。
卵巣を切除することなく、保育器のなかで顔色もよくぐっすり眠っているのを見て、ほっとする。
一週間から十日ほどで退院できるらしい。
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マイケル・ベイ監督『アイランド』感想

2012年04月21日 23時25分14秒 | 映画
録画していたマイケル・ベイ監督の『アイランド』を見た。
ひどい映画だった。
何をどのように評価すれば良いのかわからない。いろいろな映画(『エイリアン4』とか『マイノリティ・リポート』とか『スター・ウォーズ』とか)を思い出させるが、いろいろな映画の場面をちょっとずつ真似ては、結局追っかけっこが始まるという感じの映画だった。
ひどい。ひどすぎる。
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『現代語訳 福澤諭吉 幕末・維新論集』感想

2012年04月19日 00時52分49秒 | 文学
妻の陣痛を待つ間陣痛室(そのような部屋があります)で、『現代語訳 福澤諭吉 幕末・維新論集』(ちくま新書)を読んだ。
「旧藩情」「痩我慢の説」「明治十年丁丑公論」「士人処世論」収録。
「旧藩情」は上士と下士の話だった。偉いから何もしないということと、何かもしないから偉いということはまるで違うことのようでいて、自分が何もしないことで偉くなろうとしているひとは実は世の中に多いだろうな、と感じた。
「痩我慢の説」は勝海舟と榎本武揚への批判。
「明治十年丁丑公論」は西郷隆盛擁護。
「士人処世論」はみんなが役人になろうとするのは全体を考えると損になるのでみなさん商工業に従事しなさいという、いまでも就職活動で同じような問題はあるであろうという問題。

読んでいるときはおもしろかったのだが、今日いろいろあって忘れてしまったのと、いま疲れているのとで、読み終えたということだけ記録しておく。
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出産、娘誕生

2012年04月18日 23時25分35秒 | 育児
娘が生まれる。
予定日を一週間以上過ぎて、昨日妻が病院に入院し、陣痛促進剤を打っていたのだが、昨日は生まれなかった。明日もまた同じことをするのか、いつまで続くのだと、結構妻は(もちろん私も)疲れていた感じだった。
今日は促進剤を打つと同時くらいに激しく陣痛が始まり、大学時代からの付き合いなので長い付き合いなのだがこれまで見たことがないくらい痛がって、「ああこれが陣痛か。昨日のは違ったな」と思った。
一分間隔くらいで陣痛があり、その間腰を強くさすり、そのあと分娩室に移って水を飲ませたり、いきむときにお尻を手で押さえたり、と思ったよりも夫にもいろいろやることがあった。
ぎりぎりのときまで看護師ひとりだけでやっているので、そばにいる私がいろいろやることになる。しかも「15分後に来ますから」などと行って分娩室にふたりっきりにされる。
たぶん、これは想像なのだが、お産というのはわりと性的なことなので、夫婦ふたりっきりにしたほうが効率がいいなどという理屈があるのかもしれない。
昨日の時点で「立会い出産」かどうか訊かれてはいたのだが、どこまでやるのが「立会い出産」なのかよくわからない。生理用品の上からお尻を手で押さえながら「隠してますから血などは見えません」って昨日言われたな、騙された、と思っていた。
妻は言われたことをきちんとやる優等生タイプなので、「いきまないで」と言われるといきまない。しかしふたりっきりにされたときに波が来ると、ここでどうすればいいのか分からない様子だった。毎回こうしろと言ってほしいのだ。思うように自然にやってればいいんじゃないの、と思ったが、怒られそうなので「大丈夫」くらいしか口では言わなかった。
そろそろお産というときには看護婦やら医者やら(全員女性)が5人くらいやってきて、「いよいよだな」という感じだった。分娩台の後ろのほうから見ていたら、婦長っぽいひとに「もっと前で見てあげて」と言われ真横から見た。頭が出てくるところ、顔が出てくるところ、出た瞬間に水と血が噴水のように出るところが見られた。
出てきたとたんに赤ん坊が泣きだした。
感動的だった。
泣いた。
とてもよい経験をしたと思う。

子どもはものすごくかわいい。
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オースティン『分別と多感』

2012年04月15日 17時51分03秒 | 文学
ジェイン・オースティン『分別と多感』(ちくま文庫)を読んだ。
有名なのでずっと読みたかったのだがやっと読めた。
姉のエリナーの結婚問題にどういう決着がつくのか気になって読んだが、驚くべき結末だった。そんなことが有り得るのだろうか。
ルーシー・スティールという敵役の女が登場するのが、単純に悪い人物としては描かれない。どちらかというと勘違い女のように描かれる。最終的には悪意をもって行動している人物として説明されるのだが、ほんとうにそうなのだろうか、という感じ。
これでジェイン・オースティンの小説は、全六作品のうち五作品を読んだのだが、最初に読んだ『自負と偏見』がもっとも印象に残っている。ほかの作品はあまり印象に残っていない。たぶん『分別と多感』もあまり印象に残らず、忘れてしまいそうだ。
おもしろいことは、確かにおもしろい。
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東野圭吾『赤い指』

2012年04月13日 09時41分07秒 | 文学
東野圭吾『赤い指』(講談社文庫)を読んだ。
これまで読んだ加賀恭一郎シリーズの中ではもっとも納得できない話だった。
注目していたのは、主人公の息子(直巳)がなかなか登場しないのでこのままこの息子は登場しないままに事件解決まで持っていくのではないかと期待したのだが、とうとう登場し、なんのことはない普通の出来の悪い中学生だった。
夫婦で話し合って、息子のアリバイをゲームセンターとコンビニにいたことにしていたのだが、店まで打ち合わせしていたのに、刑事が調べれば防犯カメラがあるからすぐに嘘が分かるだろうということに気付かないというのは、この何でも気付く推理小説的発想の持ち主の父親にしてはおかしいと思う。
惚け老人が実は惚け老人じゃない話は、そんなことありえないだろうと思った。もっと早く警察に連絡すべきだと思う。なにか罪に問われないのだろうか。
加賀恭一郎の父親の死に立ち会わない理由も、全く納得できない。父の言うことを聞きすぎだ。
将棋を指していた話も、なんてめんどくさい父子なんだと思う。看護婦もたいへんだ。
最終的にこの小説には感動すればいいのだろうか。できないけど。
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推理小説のアンバランスな人物

2012年04月12日 01時59分29秒 | 文学
東野圭吾の『赤い指』を読んでいるが、井上靖の『わが母の記』に続き、偶然にも老人の痴呆が扱われる。話の印象はぜんぜん違う。井上靖はあったかい家庭で、東野圭吾は壊れた家庭。
井上靖の『わが母の記』を読んでいたときにずっと思っていたのだが、井上靖のこの本を読んで、彼の奥さんとか、惚けた母親の世話をよくしている彼の妹たちはどんな気持ちなのかなあということを思っていた。語り手は井上靖なので彼の立場から語られるのだが、「兄さんはたいした世話もしないでいい気なもんだ」とか「格好良いことばかり言ってら」みたいな気持ちにはならなかったかなあと思った。
そのようなことは、つまり、おっさんの主張と周りの女たちの気持ちの齟齬、噛み合わなさは実際の生活では嫌というほど見るのだが、おっさんの一人称小説ではすっきりきれいに消えて、格好良いことになってしまう。
東野圭吾の『赤い指』は惚け老人と引きこもり少年をかかえた家庭が舞台で読んでいると気持ちが暗くなる。夫と妻のすれ違いもひどい。
昔、よしもとばなながどこかで、自分の書いているものは「ドラえもん」みたいなもので、実際の人生のつらさは実際の人生で経験しているのでそんなものは小説では読みたくない、というような趣旨の発言をしていたことがあり、読んだときは「そんなものかな」と思ったが、いまだとその気持ちがわかる。
推理小説で人生のつらさなど見たくない。
登場人物が、一方でそのように人生のつらさを背負った人物でありながら、もう一方では死体の処理やアリバイについて推理小説的に計算して行動しているところがアンバランスな印象で、奇妙な人物に思えてしまう。こんな状況でこんなことを考えるかなということが多い。
例えば、目の前の死体の靴が脱げているのを見て靴を履かせて紐を結んだり(いかにも推理小説的な、あとから足をすくわれる行動)、死体を自宅の庭から移動した後に自宅の庭の芝がついているのを見てそこから犯人が特定されることを心配したり(これなどは前作『私が彼を殺した』をふまえている)、いかにも推理小説的登場人物なのだが、妻や息子との悩みも抱えている。
どういう気持ちで読めば良いかよくわからないから奇妙な印象を受けるのだろう。
ジャンルの決まっているものはそのジャンルの気持ちで読もうとしてしまうのだと思う。
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井上靖『わが母の記』感想

2012年04月09日 23時47分28秒 | 文学
井上靖『わが母の記』(講談社文庫)を読んだ。
この小説の中でも書かれているが、「小説とも随筆ともつかぬ形で」書かれている。
巻末の「井上靖年譜」に井上靖の奥さんの名前が書いてあるが、それが小説の登場人物の名前とは違うので、他の登場人物も実際の人物とは名前は変えてあるのだろうと思われる。
母親が亡くなったのが、N文学賞の選考会の日の翌日で、選考会では中堅作家O氏の作品に決まった、とあり、これが「年譜」の記載と合わせると、1973年の野間文芸賞で、作品は”中堅作家”大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』であることがわかるので、ほぼ事実そのままの出来事を書き連ねているようにも見える。
母親が惚けていく姿を描いているのであるが、ところどころ「こんなことを言うかな」と思わせる場面があり、すべてが事実をもとにしているわけではないのかもしれないなと感じた。例えば、語り手の作家の書斎を見て母親が、ここの主人は亡くなって三日が経っている、というようなことを言うのだが、あまりにも文学的かなあ、という気がした。しかしほんとうにそういうことを言ったのかもしれない。わからない。
このような、小説とも随筆ともつかぬ形の小説というのは好きなので、とても愉しめた。
もっと母親が死んで悲しい、ということを言うのかと思ったが、そんなことはなかった。

井上靖のような、きっちりした教科書のような文章を書くひとのものをたまには読んでみるのも良いことだなと感じた。
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東野圭吾『嘘をもうひとつだけ』感想、日焼けする講談社文芸文庫

2012年04月08日 17時07分29秒 | 文学
東野圭吾『嘘をもうひとつだけ』(講談社文庫)を読んだ。
加賀恭一郎シリーズでは初めての短編集だった。
どれも主人公が犯人で、しかもすぐに犯人とわかるようには書かれておらず、加賀恭一郎に犯行を証明されるというようなつくりの小説だった。
読みやすかった。
わりとおもしろかった。
以上です。

書店で井上靖の『わが母の記』という小説が並んでいるのを見て、映画化されることも知っていたので気になっていたのだが、講談社文芸文庫なので薄いわりに高いなと思っていた。が、今日本屋で講談社文芸文庫ではなく講談社文庫の『わが母の記』が平積みになっているのを見て買った。ほぼ同じ本が同じ会社から出版されて半額になるなんてすごい。講談社文芸文庫で買わないでいて良かった。
マニアックな話をすると、講談社文芸文庫は高いわりに結構早く紙が日に焼けるのでできれば買いたくないと思っている。
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